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私の人生

第508号                                        2008年7月8(火)
百歳の会は100歳まで生きるロマンのある人々です百歳の会は100歳まで生きてほしい人々です百歳の会は青春の会です百歳の会は毎日を生きる喜びいっぱいの人々です
百歳の会々のことば
私の人生 東京      田 山 謙 堂 私は昭和五年十月東京で生まれた。父、田山東虎は茨城県大洗町大貫町で生まれ、那珂湊商業卒業後、単身上京し、石油販売業界に入り、業界では名の知れた一流セールスマンだった。終戦時、会社の社長から独立を認められ、昭和二十二年足立区の石油再生工場を買い取り、千代田製油(株)を設立した。それが現在の(株)千代田エネルギーの前身である。母、コトは新潟県新潟市の生まれで、兄は石油業で、その縁で父と結婚した。私が生まれた場所は深川と聞いているが、どこかはよく分からない。当時は借家住まいで、神楽坂、目白、駒込を転々と移り住んだ。私の記憶は目白あたりからはっきりしてくる。兄弟は男四人で私が長男である。父は商売人だが若い頃から社会問題、政治問題への関心が強く、よく大山郁夫、安部磯雄、浅沼稲次郎等の講演会を聞きに行ったという。友人にも茨城県人の政治家が多く田山家は当時さながら梁山泊のようだったという。それら多くの友人の応援もあって、父は昭和三十年の都議会議員選挙で初当選を果たした。 父は組織能力に長け全国石油業協同組合を設立し火災共済制度を創設した。鋭い政治感覚を持ち、雄弁家で強腕、行動力のある野人だった。幼稚園は駒込の聖学院幼稚園で、校長先生はヤング先生、クリスチャンで優しい大柄の女性だった。先生は英語を教えてくれ、当時は日本人離れの発音だったらしく、父はしきりに私に英語の単語を発音させた。ヤング先生は昭和十五年頃、日米関係が険悪化したのでアメリカに帰った。横浜港の船に母と一緒に見送りに行ったのを覚えている。  小学校は本郷上富士の昭和小学校だった。近くに六義園、東洋文庫、理研があった。小学校で私は剣道部に入った。二年生から寒稽古が始まり、素足で足が痺れるような寒さの中、竹刀を振って稽古をしているといつの間にか汗が流れ、終わった時の爽快な気分は忘れられない。思い出は沢山あるが、臼井先生から人間の平等を教えられた。T君という少し知恵遅れの生徒がいた。国語の時間、交替で教科書を読む。先生はT君がなかなかうまく読めないことを承知の上でよく読ませる。時間がかかり皆はいらいらするが先生は辛抱強くT君が読み終わるまで待つ。終わると「よく出来たね」と褒める。その時私たちは知的障害のある児童に対しても一人の人間としてきちんと対応することの大切さを知らないうちに学んだのだ。 幼稚園の時、てんかんが持病で知的障…平等のこころは幼い頃から身についた…障害のある友達がいた。そういう子はなんとな苛めやすいのだ。私も苛めの仲間に加わり、ある時砂場でその子の手を石で怪我させてしまった。それが父にバレてものすごく叱られた。父に手を引かれその子の家に連れて行かれ、きちんと謝れといわれ、泣きながら詫びたことがある。それから人を苛めてはいけないということを骨身にしみてわかった。昔から苛めはあったのだ。それを親や教育者は身をもって教える責任があるのだ。小学校五年生の時、太平洋戦争が始まった。十二月八日の朝礼で校長先生から米英と戦争状態に入ったことを知らされた。一億一心国民が力を合わせて戦争に勝ち抜かねばならないと子どもながら決意した。…戦中、戦後の激動のなかの多感な青春時代…中学校は府立中学の受験に失敗して、近くの開成中学に入学した。開成は今では名門校だが当時は私学では伝統のある良い中学と言われていたがみんな府立中学の受験に失敗した生徒たちだった。しかしこの学校に入学したことは私の人生にとってまことに幸せだった。入学して最初にクラス担任の染谷先生が歓迎方々開成の校風と伝統について話をしてくれた。今でも忘れないのは、「今日から君たちを一人の紳士、ジェントルマンとして接する。君たちはその期待に応え努力するように」といわれた。戦争の最中、軍国主義の風潮が世の中を覆っている時代に言われたこの言葉は胸に響いた。私は剣道部と山岳部に入った。一年生の時初めての山行は南アルプスの鳳凰三山だった。山の道具、地図の見方、山行記録の書き方、山登りの基本を先輩から懇切丁寧に教えられた。山頂に立って、ご来光を拝み、雲海が足元に広がる自然の素晴らしさ、偉大さ、美しさを肌身で感じて、それから山の虜になった。休みの時は、丹沢、奥多摩の山々を友人や単独で登った。山岳部の同級生に「さとうきび畑」の作曲者、寺島尚彦がいた。戦後、彼の北軽井沢大学村の山荘は、我々山岳部の同級生たちの青春時代の舞台だった。岸田衿子、岸田今日子姉妹や学者、画家の卵、音楽家たちと知り合いになった。中学二年生の十二月に学徒勤労動員があり、王子の造兵廠に行く。戦局は悪化の一途をたどり、母と弟たちは茨城に疎開した。父と二人で東京に残る。食糧事情も悪くなり、米少々に大豆、大根、芋の茎の入った食事になり、サツマイモやカボチャが主食代わりとなる。夜になるとアメリカのB29が我が物顔で飛来し、焼夷弾や爆弾を東京の町に投下し始めた。東京の下町は空襲で焼け野原になった。終戦は三年生の八月、工場の前に整列して、天皇のラジオ放送を聞いた。私はただ呆然としたが心のどこかで、これで終わったという安堵感あった。進学は慶応大学経済学部の予科に行くことにした。戦後は戦前の価値観が一変し、自由と民主主義が全盛の世の中になったが、自分の人生の価値観を何に求めるべきか迷い悩んだ。いろいろ本を読み漁るが納得ゆく答えに巡り合えない。そんな時巡り合ったのが、当時人気を博していた実存主義だった。ジャンポール・サルトルの本を夢中で読みふけった。サルトルは「人生は選択と決断、選択し行動した時そこに人生の意義や価値が生まれる」という、男らしく魅力的な思想だった。なんとなく迷いがなくなり、前向きに生きる自信が生まれた。慶応には当時、仏文の白井浩次、白井健三郎先生等がいた。個人的に知り合いになり色々教えていただき、フランス文学を読みふけった。しかし私は経済学部に籍を置いている。少しは勉強しようと、いろいろなサークルを見て回った。授業で農業経済学を教えていたのが有名な小池先生だった。先生が指導している研究会に出てみた。顔を出して間もなく、次の報告を田山がやれということになった。私には農業問題の基礎知識も経済学もよく分からず困ってしまったが、受けた以上何とかしようと思い図書館に通い農地改革に関する文献を手当たり次第に読み始めなんとか私なりの意見をまとめ発表した。私の報告を先生は黙って聞いていたし、学生たちも聞き終わって何にも言ってくれない。反応がないのでこれはだめかと思っていた。少し経った時、井村喜代子(慶応大学名誉教授)から「田山さんこの間報告したんだって。すごく立派な報告でみんな感心していたわよ」と言われた。初めてあれでよかったのかと思った。そんなことが自信になって経済学部のいろいろなサークルのメンバーたちと交流するようになった。ゼミは藤林敬三先生の社会政策をとった。助手に黒川俊雄、飯田鼎、副手に野口祐雄の諸先生がいた。助教授は中鉢好美先生だった。当時は慶応もマルクス経済学が盛んで、中小企業論の伊東岱吉、価値論の遊部久蔵、農業経済学の小池基之諸先生の名講義を聞いた。伊東先生には個人的にもお世話になり、私の仲人もお願いした。また同友会でも貴重な助言やご指導をいただいた。大学の同期では北原勇、井村喜代子などおおぜい大学に残った。大学院に進んで一年目にいろいろ事情があり友人の紹介で昭和三十年五月から東京都信用金庫協会に勤務することになる。協会では初めての賃金実態調査を行い、また預金コスト調査を実施して信用金庫の経営合理化運動の推進などを担当した。協会は自由に働けて、楽しい職場だった。楽しくやっていたが、昭和三十年四月の都議会議員選挙に父が立候補し当選した。父は千代田製油の社長だが、後継者がいない。自分が会社を見なければ会社は継続できない。その上会社の成績も資金繰りが大変で、利益も出ない。それならいっそ店をこの際整理しようと考え、社員にその考えを伝えた。しかし社員にとってみれば、自分の職場を失うことになり路頭に迷う。そこで私を目につけ引っ張り出す画策を始めた。親類の叔父や遠縁の社員が入れ替わり押しかけ協力を求めてきた。私は父に話しなんとか会社を続けるように説得するが拒絶される。売り言葉に買い言葉で、それならお前がやったらいいだろう、ということになり私もいろいろ思案の末、会社を引き継ぐ決意を固める。 千代田製油に入社したのは昭和三十一年一月のことだった。…同友会との出合い…
兵庫県同友会第19回全兵庫経営研究集会で記念講演をする田山さん(2006年10月20日、神戸ポートピアホテル)
当時二十五歳の私が後継者として入社した。入ってみて聞きしに勝るボロ会社だ。なにしろ資金繰りが滅茶苦茶に苦しい。当時メーカーへの支払いは六十日決済だったがとてもそれでは払いきれない。手形を毎月十二枚くらいに分割してきる。そのうち三枚ぐらいの決済が苦労する。どうしても足りない時は父の知り合いに頼んでかなり高い金利の金を個人的に借りてくる。融通手形も定期的に発行してもらった。商品の換金売りも計画的にやった。まさに綱渡りのような金繰りで、よくまあ乗り切ったものだと今では思う。私が今経営者の立場ならそれこそ再建計画を立てて、リスケジュールを行うのが一番合理的な方法だと思うが、当時は誰もそんな知恵を授けてくれる人はなく、ただガムシャラに金策に駆け回るという有り様だった。そんな毎日を過ごしていると、俺はこんなことで人生を送ってよいのか疑問に思うようになる。金繰りの毎日から逃れて、もっと生きがいのある人生を歩みたいと悩む。ある尊敬する先輩に相談した。先輩は会社を辞めるのも一つの選択だが、そのためには現在の状況を乗り切り、めどがついた時新しい出発を考えるべきだといわれた。苦しい時一回逃げると次はまた苦しい時逃げたくなる。人生は負け犬になってはならないといわれた。倉庫や石油の再生工場を処分し資金繰りにめどがつき、辛うじて危機を乗り越えた。悪戦苦闘の中、昭和三十三年二代目社長に就任する。二十七歳の時である。父からも、会社の役員からも経営者としての教育は全く受けず、すべて自分で考える以外に道はなかった。その前年、知人から中小企業の経営者の会が出来た、一回のぞいてみてはどうかと誘われた。初めて参加したのが昭和三十二年十一月のことだった。日本中小企業家同友会第二回定時総会の時だった。参加してみてそこに集まった経営者たちの生き生きとして、活力にあふれ、素晴らしい情熱と、一人ひとりの話す内容の首尾一貫した論調、世の中にこんなに中小企業全体の地位の向上と繁栄を熱心に考えている中小企業の経営者がいるのだというのは大変な驚きだった。毎日経営に苦しみ一人で悩んでいたから、この人たちの志が私の心をつかんだ。そして早速入会を申し込んだ。入会して会合に出ると、私には分からない、中小企業の近代化促進とか、中小企業の団体法や独占禁止法等の話がポンポン飛び交うのだ。商売の話は全く出ない。初めてのことで一体何を、口角泡を飛ばして話しているのか全く分からない。凄い会に入ってしまったなというのが率直な感想だった。しかし会議のあとが楽しかった。赤提灯の店で、日頃の商売の悩みや、愚痴が飛び出てくる。労使関係のこと、大企業との競争のこと、下請けでメーカーとの駆け引きや大企業の不当な単価の切り下げの話、やはりみんな経営者の悩みを持っているのだ。さらに日本経済の見方や政策のこと、まさに談論風発とどまるところがない。私も資金繰りの悩みはいつも尽きない。先輩に悩みを話すが、そんなことは自分で考えろと突き放される。会の中では金の貸し借りは御法度だ。それは必ず、相互の信頼関係を傷付けるから、頼まれても貸してはいけないと釘をさされた。
第19回全兵庫経営研究集会(2006年10月20日、神戸ポートピアホテル)
 私は一番若く、経営の知識も未熟で経験もない。しかし参加して皆の議論を黙って聞いているうちに、団体法にはなぜ反対したのか、中小企業基本法と近代化促進法との関係、その狙い、同友会は近代化促進法にどうして賛成しないのか、独禁法はなぜ中小企業に必要なのか、下請問題ではいま何が課題なのか、どうすれば問題は解決に近づくのか、下請け問題は大事だといいながらなかなか運動化しにくい、それはなぜなのか。大企業と下請企業との協力関係と一方、力関係の厳しさも教えてもらった。中小企業の労使関係について現在の労働組合の活動方針のどこに問題があるのか、同友会は労働組合の姿勢のどこを変えてくれといっているのか、など皆がいわんとしていることがだんだん理解できるようになってきた。同友会活動はそれ自体仕事を離れて楽しく、精神の安らぎを与えてくれる一時だった。そのうちにいつの間にか(昭和四十年)、田中秀一理事長のもとで副理事長を務めるようになっていた。その頃福岡、大阪、神奈川、愛知、新潟などに同友会のを聞きつけ自分たちも作りたいという仲間から、いろいろ情報が入るようになる。それぞれ手分けして各地の同友会の組織化の支援をし始めた。大阪の立ち上げを応援しようというので、数人でもちろん手弁当で大阪に出かけた。京都の嵐山の旅館で会合が開かれた。会議の後、私は夜一人で京都の町に行き飲み屋に入った。京都の学生たちと仲良くなり、「君が薦める京都のお寺はどこか」と質問したら、しばらく考えていて詩仙堂を推薦してくれた。翌日詩仙堂に出かけ皆の好評を博したのも思い出の一つだ。昭和三十八年九月、第一次訪中団が派遣された。まだ中国とは国交の回復ができず、お隣の国でありながら、交流もできず、まして貿易も一部の特定の業者にかぎられる状況だった。しかし中国は社会主義の国ながら、今までと違い資本家が新中国の建設に協力するなら企業の資産価値に対応する利息(定息)を支払い、経営に一定の地位を与え協力を求める政策をとっているという情報を得た。日中の友好、貿易の拡大、資本家の現実の姿の視察を目的に訪中団を送ることにした。全国の各地同友会から有志を募り、団を編成した。私は昭和四十年、第三次訪中団の副団長として参加した。そこで二十二日間中国を広州から北京まで見学し、民族資本家と各地で対談し、工場を見学し彼らの自宅に訪れ、その生活を見聞することができた。それは文化革命直前の中国で、まことに貴重な体験だった。そこで出会った全国の仲間は全国組織結成の一つの力になった。昭和四十四年十一月、五同友会二準備会六百四十名で全国組織中同協(中小企業家同友会全国協議会)が発足した。私は東京の副代表理事だったが幹事会には幹事長が必要だということで幹事長に選ばれた。会社もまだ基盤が固まらず、よたよたしているのに幹事長はおこがましいと思っていたが、当時は東京が同友会発祥の地で、東京の考え方、経験が組織の方針を形作っていたので東京で受ける以外にないなと観念した。中同協議長は東京の田中秀一さん、事務局長は東京の足立重嘉さんが選ばれた。当時の活動を書いていくと限りがないので止めるが、同友会は活発な政策活動を展開して各関係官庁、 政党にも精力的に要望書をもってまわり同友会の政策を訴えた。総会の都度各地参加者がみんなで手分けして回った。…労組結成契機に労使関係改善・経営理念策定にとりくむ… 当時、私は経営者としては全く未熟で、指導力にも欠け、社員とのコミュニケーションも全く不十分だった。その結果、社長就任以来、何回も経営の危機に見舞われた。ただ救いは、昭和四十年代は高度成長経済の時代で、車社会が到来し、石油の消費は右肩上がりに増加を続けた。時代が未熟な私の背中を押して支えてくれた。経営者はぼんくらでもガソリンスタンドの数はどんどん増加し、社員も増え、売上も年々増加を続けた。そのころ最大の悩みは人手不足だった。 私は同友会で経営者の経営姿勢を正すことの大切さ、特に常に前向きに挑戦するたくましい企業家精神こそ私に欠けていたことを痛切に知らされた。そして同友会創立以来論議を重ねてきた労使の信頼関係の確立こそ経営にとって必要不可欠な課題であること、そのためにも経営理念を明確にして経営指針を社員の英知を集めて作成することの大切さを学んだ。 なかなか改善されない労働条件、未来展望の不透明感、その他いろいろあるが、つまりは社長の私への不信感が積もり積もって、昭和五十一年に当社で労働組合が出来た。そのことを契機にして私自身が従業員と真正面で向き合い、従業員と本音で語り合う努力を積み重ねることになる。その中で私も積極的に労働条件の改善に取り組み、社員との信頼関係も強まり全社力を合わせて経営の発展に挑戦する気風が次第に生まれるようになった。 昭和五十二年はわが社の歴史にとって記念すべき年だった。同友会の呼び掛けに応え、私は持てる力のすべてを傾注して経営理念を作り上げた。そしてそれを実現するため経営計画を主だった社員の総知をくみ上げて作り上げた。それを作り上げたプロセスが労使の信頼関係をより確かなものにする過程でもあった。そして直面する会社の大変な危機を乗り越え会社の繁栄への道を開くことができた。私は同友会に巡り合うことによって経営者として成長することができ、また全国に多くの貴重な友人を持つことができた。 同友会は創立以来、個別企業の繁栄とともに日本の中小企業全体の発展と日本社会の健全な発展を目指して努力する姿勢を一貫して堅持してきた。  設立当初わずか七十人あまりで発足した同友会が、今では日本全国すべての地域に同友会が誕生し全国四万社に近い経営者を擁する中小企業経営者団体に発展した。各地で同友会の存在が一人ひとりの中小企業家にとっていかに素晴らしいものであるかが語られる時、私が五十年この運動と共に歩んできたことの素晴らしさをしみじみと感ずる。そのことが私の人生に無上の生き甲斐と幸せを与えてくれたことに心から感謝するのである。
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今日の一句       大阪へネクタイ無しの夏きたる

by akinishi1122 | 2008-07-08 06:08 | 百歳の会

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