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日々新聞

第5844号 日々新聞  2016年11月25日(金)
人に頼り切らず先ず自ら動く 漫画家 細川てんてん
自分のために生きるとラクになる
専業主婦だつた母は、調理も掃除もご近所さんとのお付き合いも完璧で私の自慢でした。そんな大好きな母にどうすれば褒めてもらえるのだろう。幼い頃から、それが私の人生のテーマだったように思います。然し私は母に褒められ記憶がありません。「できない子なんだから何もしなくっていいのよ」が母の口ぐせでした。
むしろ、私がうまくいかないときに、母は喜び「なにもかもうまくいかないと思えばラク」「生きているのがしんどい、大変だってアピールしなさい」と言われてきました。
「ヒット作を出したら褒めてもらえるかも」と必死なって描き続け、運よくベストセラーに恵まれました。然し母は「目立つと周りの目がね・・・」と言いました。私は子どもの頃から「自分は本当にダメな人間だ」「どうせ私は何もできない」と考えるマイナス思考の塊のような人間でした。私が悪いからだ、とずっと考えてきました。でもその声を聞き45年生きてきて初めて気がついたんです。
ほめられたくて、母の教えを忠実に守ってきたことが、生きずらさにつながっていたのではないか、と
母は娘には人生に失敗してほしくなかったのではないか、という母なりの愛情だったのかもしれません。
そう思えると「自分だけが悪かったんじゃないんだ!」ととてもラクになりました。そして、「私は私のために生きたい」と言う思いが心の底から湧きあがってきたんです。誰かに支配されるのではなく、主体的に生きる大切さを、今実感しています。
人に頼り切らず、先ず自ら動いて自分の人生を生きてみる、そう考えられるようになって、心の乱れが少なくなった気がします。

第5845号 日々新聞  2016年11月28日(月)
地震の記憶   東松島鳴瀬未来中3年 京野彩華
私はその時、塩釜小学校に通っていました。家は学校の目の前にあって、鋪道橋を通れば3分ほどで着く場所でした。震災発生時、私のクラスは図工の授業中でした。避難訓練で彫刻刀を使っている時でした。ふ避難訓練で彫刻刀を使っている最中は、彫刻刀をしまう、なんてことはなかったので、しまうひまもなかったので、全員机の下にもぐりこみました。
教室の「机が倒れ、彫刻刀は床に落ちてくるという危険状態でした。クラスメートの何人か泣いていました。私も机の下で泣いていました。地震の恐怖で泣いたわけではなく家と家族が心配だったからです。
 以前母は、「このマンションは釜石で一番古いマンション」といっていたのでいろいろなものが崩れそうで怖かったのがひとつ、もう一つは祖父母の家のほうです。当時は私は祖父母の家によく泊まりにいっていました。祖父母の家は東名にありました。祖父母の家には祖父とおじさんしかいませんでした。祖父母の家は大きいけれど古い家だったので、すぐくずれるかもしれないと思いました。私が幼い頃に大きな地震が来て、壁がとれたこともあったので不安でふあんんでしかたありませんでした。
地震が止むと全員すぐ整列し外へ逃げました。校舎の中はひどいものでした。壁がくずれパイプ椅子や長机が倒れてろうかがせまくなっていました。外に出ると雪が降っていてとても寒かったのを今でも覚えています。コートと手袋では足りないくらいでした。迎ええに来た母に祖母のことを聞いてみると、「3階に逃げたから大丈夫だった」と言われたので安心しました。

第5846号 日々新聞  2016年11月29日(火)
地震の記憶(2)   東松島鳴瀬未来中3年 京野彩華
「体育館へひなん」と言われて入ると、電気やストーブなどがついていました。私の友達が「御父さん電気を送る車を出してくれているんだ!」と言っていました。そのおかげで飯がたけ味噌汁も作れたので、食糧は困らず済ました。テレビもついたので観に行くと、黒い水が見えました。津波でした。
私はまた祖父と叔父さんのことが心配になり、電話をかけました。
すると「2階にはギリギリきていないから大丈夫、でも前と後ろの家が流されていった」といいました。驚きをかくせませんでした。そこまでの津波とは思っていなかったですからです。
私はその日の夜、寝ようと思っても眠れませんでした。せまくておちつかなかったからです。
私は翌日の「記憶が全然ないのですが、当日のことは、はっきり覚えています。
私は震災で恐怖、不安そして命の重さを学びました。こんな経験は全くないので、子ども、孫、子孫へと伝えていきたいと思いました。
命は何よりも大切なものだということを、改めて感じさせるもいのでした。

by akinishi1122 | 2016-11-29 07:39 | 社内新聞

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