2015年夏のヨーロッパ
2015年 10月 09日
2015年7月23日(2) 自転車でルーブル、シャンゼリゼ通りなど
ルーブルや庭の木陰に裸婦の像 自転車でルーブルの広大な庭の像をじっくりと観てまわ
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やはり時差でこちらの朝2時に目覚めてしまった、だから昨日の日記を書く。書き終えてまた眠って起きたのが5時である、少々お腹が空いたので朝食でもと外にでて聞くと6時ではスーパーは開いてないという。だからそのまま散歩になった。すぐ近くにセーヌ河がある。橋から見ると堰き止められた5分の1ぐらいの川幅から滝のように4mぐらい水が激しく落ちていて、その横が運河になり丁度そこに3隻ぐらいが入るところだった。入り終わると大きな扉がゆっくり閉まり、前方の扉が開いて上の河の高さになって船は前進していく。大きい河はこのようにして川上に上っていくのだな、とこれはケンブリッジにいたときも規模は小さいがのどかな風景だと眺めて楽しんだものだ。
入堰する船が結構大きくおそらく土砂などを積むのであろう、底が深く、大型トラックの200台以上の土砂が入る深さの容量があるのが3隻も上の川に上るのだから経済効果に貢献しているのだな、と感心して動きだすまで眺めた。
セーヌ河のここの幅は500mぐらいであり、豊かな水の眺めは心を癒してくれるものだ。
橋を渡ったたもとに立飲み、立食いのレストランがありカウンターに立って朝食のパンやコーヒーを飲んでいる店があったので、朝食をこの人たちと並んでカウンターについた。
朝の6時代だから早朝の仕事をする人たちが次つぎにカウンターに立つ。そして半分ぐらいの人はコーヒーだけでたちさっていく。その庶民の雰囲気にしたることができて気持ちがいい。肝心のレストランはまだ始まっていないが、レストランの席の方は黒人の掃除青年が忙しくモップ掛けをしている。
ここまでに歩いて出会う人々は殆どが黒人であり、朝の開店の掃除は黒人の労働の場所のようだ。それに地下鉄の乗客の3割ぐらいが黒人であるのもパリで気がつくことである。フランスはアフリカにたくさんの植民地をもっていたから、アフリカの人々はフランス語が喋れるから仕事が多いのであろうか。
7時ごろホテルに帰り、パソコンの接続を頼んだら、難なく接続してくれたので、昨日のカウンター嬢は詳しくなかったということらしい。これで胸のつかえがとれて早速昨日の日記を家に送信することができた。
今日は何から始めようかと考えるがカードのJCBに行きそこで何かツアーはないか聞くことからぐらいだろうと出かけた。すると今いるホテルは相当パリの郊外の端にあることを知った。顕が列車で移動しやすくて克安く、パソコンが使用できるという条件で探しあててくれたらしい。
地下鉄でピラミッド駅がJCBに近くだし、日本料理店が多い駅なので隣の女性に聞くのだが、なかなか見つからないようなので、オペラ駅だったら簡単に探してくれたのでそこで降りることにした。
パリは道がメイン駅から放射状に流れに会ったのでスマートホンでJCBを探してもらいやっとたどりつけた。何回も来ているが忘れてしまっていたのだ。
JCBではトイレを借り、冷たい水をいただいて、雑談したがツアーは僕が行ったところばかりの紹介だったから、自分で列車でそれこそ行き当たりばったりで探すことにした。
近所の日本食堂の「十時や」で昼食弁当の「鮭弁当」にした。野菜のシンギクや、卵やき、味噌汁もつき10、20ユウロでなかなか美味しい。ホテルに冷蔵庫もあるので三角海苔まきおにぎりを4個、それにかき揚げフライを2枚買った。フランスパンの店でフランスパンに焼肉を挟んでもらったが店に忘れてしまっていた。これが今回の第1番目の失敗である。
地下鉄の駅売店に果物があったのでバナナ2本、桃2個をかったら4ユウロである。その桃が日本のと同じ大きさなのに、硬いし、美味しいのだ。日本だったら1個300円以上するのに全部で4ユウロとは日本円にしたら800円以上のはずなのだが、日本の3分の1の値段だから果物は安い。バナナは皮も身も硬く美味しくもないので2本とも捨てた。
パリには貸自転車が道に沢山目につくから今日は借りて市内見物することにした。
管理人がいないので、返しに来た青年に利用の仕方を聞き乗ることにした。管理のためであろう、現金での支払いはなくクレジットかーどで、どこでも次の貸し出しの場所で時間で精算されて、乗り捨てができるから便利である。
近くがルーブル美術館だったので、広大な庭にたくさんの彫刻の裸婦があったので全部まわるのに自転車は便利であった。やはり昼ともなると暑くなるので歩いてではとても回れない庭を全部まわり写真に収めることができた。やはりえらい人びとであるが、日本人らしい人にはついに出会うことがなかった。円が安くなり旅がしにくくなったのがここでも実感として知ることになる。
その次がコンコルド広場である、ここはフランス革命のとき王や貴族たちが革命軍によって首を切られ殺害の象徴的な場所、400年も昔の話だが、この革命は市民のブルジヨア革命で支配は長くは続かなかったのは、やはり支配者であるブルジアが企業や商店主などで団結しにくい階層だったからであろうが、絶対王政を民衆が倒したということでは革命に歴史に残るもので、ここから、これではいけないと空想的社会主義生まれる同機にはなったし、いまだにその時のフランス国歌は「ラ・マルセーユ」として理想を謳いあげているのである。サンシモンが後の社会のあるべき理想を考えだしたのは現在にもその精神が流れているものだ。
ここからシャンゼリゼの通りを登がベンチが沢山あるがその開くのを待って休憩する。
丁度隣にモーリタニヤの35歳のシャンジェリゼのストランでセフをしている青年が昼の過ぎに休憩で隣にきたから会話になり、僕のケンブリッジ留学の時クラスメートが6人もモーリタニヤだったし、石油大臣、政府官僚、生物学教授、地質学者らがみな女性だったこと、そしていつも彼女らとロンドンに遊びに行ったことなどはなし、ラクダの肉を食べていることも初めて知ったことなど話てきかせた。彼も2回結婚したが、いずれも別れてここにきていて、シャンジェリゼ通りのそこのレストランでコックをしていること、名前がGANDEGAというからあなたの名前を日本語で書くと元出我といい、日本での意味は元の自分の性格をいつも大切に出しなさいという意味だから良い名前だと大切に自分の名前の意味を実行するようにしてください。と言っておいた。
今夜メールしてくるとも約束してくれた。
やはりシャンジェリゼ通りのベンチにいた日本人風のカップルに話かけたら、フィリピン人で今回はハネムーン旅行で2週間のヨーロッパらしい、夫は35歳でフィットネス教室の教師で妻はフィリピン航空のスツアーデスらしい、彼女は日本にもたびたび行くし、この旅行はもっぱら彼女の案内でまわっているという。彼の名前はMARUKOというから、漢字で丸子と書き、漢字のペンネームもして覚えやすいと手帳に書いてくれというので書いてやった。彼女はINANというから「以南」と書き、あなたは日本の以南に住んでいるから僕は忘れることがないだろう。と楽しくはなしあった。
凱旋門の前の日本女性がよく持っているカルチエ?の本社前は行列の入場待ちしているが、入り口では荷物に検査をするほど神経を使っている様子だ、前に来た時はなかったのにやはり今のテロが世界をかけめくっているからであろうか。
凱旋門の近くで貸自転車を返したのが4時半、帰る地下鉄で最寄りの駅の別を教えてもらった終点で降りてみた。すると若い娘さんが歩いては無理だから地下鉄に乗りなさいというが、インフォrメーシヨンがそんな遠い駅を書くはずがないと思い歩きはじめてみた、するともう3キロぐらい森の中を歩くのだがなかなか町がない、しかたがないから、ヒッチハイクでもして帰ろうかと何台にも手を挙げても止まってくれない、そんなことを繰り返しているところにタクシーがきたので載せてもらったが、どんどん森をまだ走るしもう10キロ以上も走りやっとホテルにたどりつけた。だいぶ覚悟していたが、10,20ユロで済んだからやれやれだった。地図を自分の頭で判断したことの誤りだった。</div>
これが2回目の失敗となった。
2015年7月24日(3)ユーレルパス登録
夏の夜や9条の巨星一つ消ゆ 9条の会呼びかけ人の鶴見俊輔さんが本日他界されたという
日本に居るときは毎日プールで300m泳いで運動していたが、旅に出ると体調を保つために森光子が86歳まで舞台で宙返りをできた彼女独特の体操の屈伸運動を75回をまた始めることにした。これは確かに僕にもよく効いて毎回の旅で実施しているもので、これをまたはじめることにした。
パソコンを開いたたら、文学阪神の中山支部長から早速の便りだ。
宮崎様
旅の様子拝読いたしました。またまた世界の友人が増えつつありますね。「世界人類皆兄弟」であれば紛争や戦争はないと思いますが。。。ことはそう簡単ではないのですね。
関西地方は3日前に梅雨明け宣言がでましたが、皮肉なことで、宣言後に二日間雨が続きました。今日(24日)は晴れて夏らしく暑い一日でした。天神祭りの日です。
18日には、大阪扇町公園で戦争法案の廃案を求める1万人府民集会があり参加してきました。全国津々浦々で多彩な運動が広がっています。内閣支持率が急速にダウンし、毎日新聞の世論調査では35%との報道。20%台になれば内閣はもたないのではないかと仲間で話しています。
自衛隊の方々の思いの本音は、戦争反対ではないのでしょうか。
戦争に向かう国になるのか大きな岐路に差し掛かっているような、迫りくる重苦しいものを感じつつ、九条の会の仲間と相談し、署名やビラまき、集会、デモなどに参加ています。8月9日(日)池田でも市民集会が予定され、私は文学阪神の例会を欠席になりそうです。また、8月15日には「戦後70年を語るつどい&資料持ち寄り平和のための戦争展in伏尾台」を取り組もう相談しています。
お元気で、良い旅を・・・阪神支部、中山路男
追伸 夕刊に鶴見俊輔さんの訃報がありました。九条の会の呼びかけ人がまた一人・・・9人中6人が亡くなられたことになりますね。全国7000をこえるといわれる九条の会が一層運動を盛り上げることで弔意を表したいものだと思いました
岡山の土井先生から
土井 章弘 パリですか。又宮崎さんの旅行バックに入れてもらい世界旅行です。宜しくお願いします。
民主文学会の作家 風見梢太郎さんから
敬愛する宮崎様。
パリからの便り、楽しく読ませていただいています。
パリは2度行きましたが、ツアーの最後に立ち寄り慌ただしく
駆けめぐったことを覚えています。
ゆっくりパリを回っておられるご様子、羨ましいです。
まるで自分がパリの町にいるような思いにとらわれます。
どうぞお元気でよい旅を!!
風見梢太郎
民主文学の8月号に載った「星明かりの庭」の感動した感想を送るつもりだったのに、風見さんから先にお便り頂きまた感激だ。
片倉さんは差別と闘いながら老いてなお人間の生き方をまげずに戦い後輩を育てた職場研究室を記録にのこそうとされている。自分もその組織で人間的にも尊敬できる片倉さんだったのが認知症になりかけている。このひととともに生きてきたことを幸せに思っている、なるだけながく寄り添っていたいのだが、人間年をとるとこんなにしてせけんからの距離が離れていくものだが裕造は心の支えであった片倉さんが生きておられることで自分の人生の豊かさだったことを知る。それが庭の椅子を美しい花だと見える片倉さんと月の光の中で共有することで、片倉さんとともに生きた幸せを感じるという結びは共感できます
小説で風見さんが65歳になられ、研究室長も定年になられたということもわかっていた。今後は原発に関する専門的知識で小説がまだ続くことだろうから、大いに期待したい。
北海道の囲碁6段で同友会で全国囲碁愛好家のネット対局のリダー笹川さんから
宮崎さん
おはようございます。
その後、ふぃご村囲碁道場の方、次の手着手されていないようですが?
何かありましたか?
暇な時に、接続して、左上の枠の中の赤いところをひと通り着手するようにして下さい。
尚、右上の枠の「新規登録」ボタンはしばらく押さないようにして下さい。
押さなくても既に10局ほど進んでいますので、こちらを終局させて下さい。
私との対局が終了しましたら、既に3名ほど以前から入っている同友会の会員がいますので、
順次ご紹介します。
新聞に掲載されて、新しい仲間が入ってくる前に、対局方法を覚えて下さい。
宮崎さん
パリですか。いいですねえ。
ゆっくり楽しんで下さい。
対局相手に方々には、それとなく伝えておきます。
同友会新聞はまだ記事になっていません。
このように便りを戴くのは嬉しい旅の楽しみにもなっている。
ゆっくり本も読めるし、その日の出来事を日記に書くのも楽しみである。
朝食は昨日日、日本食堂「十時や」で買ったおにぎり、かきあげ、それに日本からもって来た梅と鰹の練ものお湯で溶かし吸い物にして食べたら大変美味しいのである。これは僕の発見である。これだったらおにぎりをもっと買ってくればよかった。それに桃も美味しい。
コノホテルにはキッチンが部屋にあり、鍋、皿、コップ、レンジ、電子レンジ冷蔵庫まであるから朝食には困らなくていい。
十一時ごろホテルを出てメトロ駅に向かって国鉄の駅はと聞いたら、白人の青年が日本語で応えてくれるではないか。この青年はブラジルからきてのどこか務めているようだが、背広姿で自転車をつなごうとしていたのに、駅まで私が案内しましょう。と言って連れてくれた。ブラジルでは日本人が多いから日本語に接する機会が多いのであろうか。やはり日本語を話す人がいるとホットする。
彼の話でここから一番近い国鉄はリオン駅でメトロの十個ぐらい先で一つ乗り換えでいけた。
目的はユーウレルパすの使用開始の手続である、最初使用するとき、駅で開始の日付刻印を押してもらわねばならない、この窓口には世界の学生が沢山並んでいて、なかなか時間がかかる、今学生が夏休みに入ったから、周遊のチケットで列車の予約に並んでいるのである。100人も並んだ学生の中に日本人はいなくて、それらしい顔は台湾人である、「中国人ですか?」と聞いたらNO TAIWANN と返事してはっきりと国名として台湾を表現するから、1949年に蒋介石が逃げ込んで国民党を維持し、アメリカに助けられて、生き延びたのがいまではもう国としての体裁ができているようだ、台北から毎日北京、上海に飛行機も飛んでいるから、経済的には中国との関係が深まっているから、もう戦火を交えることはないだろうという気がする。丁度先日アメリカとキューバが国交を回復し相互に大使館を設置したように、アメリカ自身が外国に対しての援助するより、それぞれの国が自分で生きてもらわねば、アメリカの経済が破綻しかけているのだから、その影響でアメリカも台湾と中国の関係が平和的に進むことを願っているので、その結果の台湾、中国の雪解けになったものと思う。
又日本へのアメリカの世界での戦争の肩代わりを強力に要求している結果日本がアメリカの戦争の後方支援としての安保法(戦争法)が押し付けられ、安倍政権が戦争のアメリカの肩代わりに引きずりこまれていっている。
今日はユーレルパスの手続に時間がかかり、これでは日帰りの旅行もできない時間になったから、駅前で昨日買った自転車のチケットでパリを回ろうとして機械に入れたががうまく作動しなく、中年の男性がながく工夫をしてくれたが、うまくいかず自転車も断念せざるをえない。
スーパーで冷凍の焼き飯とウイスキーのジョニ赤瓶、フランスパンを買って帰る。夕食を早くしてシャワーを浴び6時にはベッドに入る。
報徳学園は3回勝ちベスト16になっているようだ
2015年7月25日(4)国鉄のSNCFで2時間10分のVALENCE
麦の色泥と見え行くSNCF フランスの国鉄は新幹線並みの速さだ
朝8時45分に家に電話をいれたら、上本町の土地のだから安心した。
リオン駅10時04分発の特急列車に乗る。目的があうわけではなく、一番まじかの出発の列車だから乗り込んだ。座席は90%ぐらいだから空いている席に座る。果たしてどこに向かっているのやら分からない。目的なしで、1時間ぐらいで最初に止まる駅で降りようと思っているのだがなかなか止まらないのである。2時間も止まらないから車掌に今どこらあたりを走っているのか?と地図を開いて尋ねてみた。するとこの列車がどちらを向いて走っているのかがわかった。そしてあと10分したら、VALENCE駅に止まる。というのだ。
すると2時間15分のノンストップでしかもスピードが日本の新幹線並みであるから、おそらく大阪から山口県ぐらいの距離であろう。
フランスの農村地帯を地中海の方に向かい、しかもリオンをはるかに越しているのだから驚いた。僕は名も知らぬ農村の駅ぐらいで降りてその地方の人の生活文化に接したいと思っていたのだが、これでは当てが違うようだ。
車窓から見える風景は麦畑ばかりで日本のような山がない。のどかといえばのどかであるが、景色に変化がない。ポツポツと羊や乳牛、馬などの放牧があり、農家もはるかに見える程度で、この麦畑や放牧の管理は大変だろうなと思う。そしてフランスが農村の国であることがよくわかった。これだけの小麦の産地だから、フランスパンが美味いのは歴史と豊富な麦があるから生活の知恵で生まれた味だということが納得できるというものだ。
以外なのは、羊にしろ乳牛にしろもっと多くあってもよさそうに思うのだが、ほんの少しだけしか車窓からは見えないのである。スイスやイギリスでみた田園風景とは少しちがう感じだ。
だがヘッセの詩の「山のあなたの空遠く 幸い棲むと 人のいう」という感じはこちらがあの詩の感じがでるものだ。
もう一つ感じたのが、先の大戦でナチスドイツがこのような広大な、人もあまりいない農村の村をよくも占領したものだし、目的がなんだったのか不思議に思う。トレーズやアラゴン、ピカソ、ピエール・キューリーなど幅広い文化人が人民戦線を組織して抵抗できたのは、これだけの農村の支えがあったればこそでもあったのだろう。
ヨーロッパの民謡に「二人が会うのは麦畑 仕事の休みに 話します 空には眞白な雲が行く 二人は楽しい 恋人です・・・」というのは農村の若い青年の恋も楽しく想像がわいてくるものである。
森も少なく、そして生えている木々の高さが日本の杉や檜よりも低いようである。防風林が農村にはつきもので、これと牧場の中に1本ほど傘のように日陰を作る常緑樹があるのは、羊たちが日差しから逃れる休息の場所を与えているのであろう。これは農民の羊にたいする労わりであろう。やさしさの心として農村の風景が見る人に潤いを与える源であろう。
なだらかな丘陵だから河というものがあまりみかけられない。ところどころに小さな池は見かけられるがそれもこの地方の特徴としていいものだ。
12時20分ぐらいに着いた駅は畑の真ん中にある鉄骨でできた近代的デザインになのだが、周囲には街がない。ここから町へはバスで行かねばならないし、パリへ帰るにしても2時間半かかるから、まちをみる時間がないだろう。パリへの次の列車は13時45分というし、とても街への時間はとれない、だからここで駅レストランで昼食をすることにした。
フランスパンにトマト、チーズ、肉など挟んであるのにした、これがなかなか旨いのである。これこそ先ほどから列車で眺めてきたあの麦畑からできた、しかも洗練されたパンだなと感激しながら食べる。麦畑の中の駅のパンの味として忘れられないであろう。これだけでも来た値打ちがあった。
駅の広場でのテーブルの食事だから、同じテーブルに親子ずれが来た。聞いてみると娘は12歳でうちの孫娘と同じ歳である。親しみがでた。お母さんが運転する車でスイスからきたという。地図で見るとここはもうスイスに近いと知った。お母さんが娘の夏休みに2週間の旅に連れてフンスをまわるという。旦那は列車の部品を作るエンジニヤで、日本にもたびたび出張するという。
この親子と写真をとり、日本から持ってきた侍の絵のソックスをプレゼントし一緒の写真を送ることにした。
13時45分のパリ行に乗りまたノンストップで4時にパリ・リヨン駅に着く。そこから地下鉄のピラミッド駅まで行き、「十時や」で牛丼、ラーメン、おにぎりなどを買いホテルに帰る。六時をまわっていた
日本は台風12号が九州に接近しているという。
2015年7月28日(7)ヴェルサイユ宮殿庭、友人(ブラジル、ドイツ、カンボジヤ、韓国)
洪水よ我亡き後へ秋近し 皇帝が栄華を誇りヴェルサイユ宮殿だったがなるほど目を見張る広大な庭園である、そして命取りとなった
朝から9時半ごろにホテルを出たらすぐ、「オハヨウゴザイマス」と後ろで声がする。見ると23日に地下鉄の駅を教えてくれたブラジル青年である。驚いた。
あの時お礼も出来ずに別れたから、今日は日本の扇子をプレゼントし、少し話をし写真にもおさめた。銀行員でまだ独身だという、ぜひ今後おつきあいしたいと話すと喜んでと言ってくれた、彼は少し日本語を話すから、さしずめこの前の感動の日記をフランス語に翻訳しておくることにした。(Lawert
lrigoneaw@yahoo.fr)
昨日の国鉄の駅から普通列車に乗ってみた。どこに向かうかとなりの黒人夫妻に聞くのだが、これはパリから遠くは行かないというし20分ぐらいで終点となった、そこは少し歩いたら賑やかな露店のテントで野菜などの市場だ、カボチャの形をした桃が美味しかったので先日買ってリックに入れて歩いたら、崩れて食べられなくなっていたのが欲しかったのが目についた。
えらい人混みであるがトイレに行きたくなったのでマクドナルドで中食をとる。
外は寒くなっている。こんな7月なのにフランスは寒い地方なのである、ジャンバーを着る。
ここから遥か1000mぐらいのところに綺麗に刈り込んだ樹木の塀が続いているから、きっと名所であろうと歩く。すると庭の中が芝生が美しく広大である、はいろうとしたら、ゲイトは1キロぐらい歩いて回りなさいと言われ、そんなにも大きいのかとあるいた、するとゲイトといっても一人の切符売りが部屋もなく手渡しで8ユウロを請求した。入ってみると一面の芝生に大きな池、婦人の裸体像が周囲に沢山設置してある。いずれも立派な彫刻である。
そこでここがヴェルサイユ宮殿の庭園であることがわかった。道理で広いはずだし建物からしてヴェルサイユ宮殿だということがわかった。ぼくが入場したのは一番はずれの出入り口だったからヴェルサイユと気付かなかったのである。
ベンチに一人でいた老人に話しかけるとドイツから来たという。もう69歳で65歳まで銀行に勤めていたがが、息子がパリにいるが35歳で結婚していなので妻が足が悪いから見に行ってくれというから息子の家へのついでに来たという。日本は明治の開国以来医学や法律はドイツから学んで若い医師はみなドイツ語をかいたものだし、日本の法律の民法や刑法はドイツからの写したものだし、近代文学も森鴎外がドイツで学びその後の文学の流れと言えるほどドイツの文化でわれわれは育ったものだ。と話したら、彼は最近に日本は原発で苦しんでいるようだが、ドイツがチエルノブイリ事故やアメリカのスリーマイル事故で原発は危険なものと知り、いまでは原発は稼働していない、もっぱら地下資源を利用しての発電に代えたといっている。まだ日本は原発をやるつもりなのか?と質問されたので、僕は原爆の経験を長崎の近くで経験しているから原発には反対の立場だ。といっておいた。
日本の文化については殆ど知らないというから、僕はポエムの俳句をやっているから、読んでもらいたいと話、送ることにした。
なかなかの紳士で感じがいいいからドイツ語に翻訳した俳句を送るつもりになった。Keaus.trueck@googlemail.com
つぎに花壇の美しい中のベンチに二人ずれの夫妻にあった。カンボジヤから来たという。2年前カンボジヤのアンコールワットや仏教寺院をまわりその偉大さに感動し、そして国民が親しみシミ深く好きになったことをはなした。かれはカンボジヤで料理店を経営しているが、今は息子が継いでくれているから、こんな旅行ができるといっている。奥さんは杖を突いているから今回がやっとだろうという。彼は70歳というが二人で旅行できるほどにカンボジヤの経済も豊かになったのだろうか。パソコンも僕に顕が買ってくれたと同じようなのを使い写真を撮っているからたいしたものだ。一緒に写真もとり、彼の住所もかいてくれた。
Dok Beng 11avenue.ST Remy Nor 93200 Soil Denis 93200
ヴェルサイユの宮殿内はみる時間もないぐらいの広大な公園で満足した。
帰りの列車に一緒になった韓国の親子(母娘)は家のきあらちゃんと同じである。だがおかあさんと同じぐらいに英語ができ、僕との会話でもわからなかったら娘に聞いているぐらいだから凄い語学力だ。英語を始めて3年になるという子供の理解力は早いものだ。旦那は普通の会社員らしいが、二人を旅行にだせるとは立派な人である。12歳がこんなにに英語ができるのを見て韓国の若い人々の意気込みに圧倒される。道で歩く人に日本人か?と聞けば90%ぐらいが韓国である、これは日本を追い越すのではないかと本当に予感する毎日である
Yem Soo
高校の同期生の西照雄さんからメールがきた
2015/7/28,
80歳6ヶ月でヨーロッパ独り旅を始めた同級生がいるというのに、6月から2回熱中症モドキになり、10日振りに早朝ウオーキングを再開したところです。返信が込み合うのでは?と遠慮して今になりました。当方は日記にも、その日の出来事の6割位しか書けない(思い出せない)のに、貴兄の著書の何れにも交通機関の時刻等が細かく記載されていてただ驚きです。 一度原文を拝見したいものです。初日から素晴らしい出会いが続いているようですが、新しい読者との、また旧交を温める貴兄ならではの出会いを、体調を整えながら心待ちにしています。帯状庖疹の予後には十分気を付けてください。
2015年㋇16日 (日)(26)ツェルマット・マッターホルンの村
THANKS FOR YOUR E-MAIL. I'M LOOKING FOREWARD TO GET YOUR FIRST POEM!
ENJOY YOUR HOLLIDAY IN SWITZERLAND
KIND REGARDS
DESIREE AEBERSOLD
How are you? Where are you now? I hope you have a good weather in Europe .
We have some rain in these days but we also need rain, so dry everywhere.
Ok wish you have a nice trip.
お元気ですか?今どこにいますか?私はあなたがヨーロッパで天気の良い日を持っている願っています。
我々は、これらの日で、いくつかの雨を持っているが、我々はまた、どこにでも雨なので、乾燥を必要としています。
[OK]を、あなたが素敵な旅行をしていたいです。
Barry
私も、俳句に興味が湧いてきます。
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中原 富二雄
by akinishi1122 | 2015-10-09 12:41 | 旅行