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杉原千畝記念館

(51)2013年9月9日 日帰りの旅、TRAKIと KAUSO杉原千畝博物館
たどり着き日本の秋を伝えけり  杉原千畝領事博物館に閉館前にやっとたどりつけた
ユダヤ人6000余人を救った領事の記念館についた
朝、ホテルのフロントに相談し、日帰りできる観光地を紹介してもらったら、TRAKIとゆう街を教えてくれた。バスで30分の距離である。
バスに乗ったら、隣にいた若い女性が分厚い本を読んでいるので、学生さんですか?と聞いたら高校高校で教えるとゆうことは日本ではないが、美術の歴史には関連があるのかもしれないし、日本でゆうところの倫理、道徳とおもえば、関連がわかるような気がする。24歳とゆうから、大学を卒業してまだそんなに経験はないだろうから、どんなことを教えているのか興味がでてきた。ミケランゼロなどは、画家であり哲学者であったし、古代ローマなどでは、医学までも一緒に考えたものだから、源流は関連があるのかもしれない。美術歴史などききたいし、日本の宗教思想を知らせてみようと思う。そんな交流をする’約束ができた。彼女はこのTRAKAIの生まれで、ここの城のいわれも説明してくれた。湖の島の中に城があり14世紀にたてられた美しい城である。レンガ色でトラカイ湖に橋を渡ってゆける。王がいたし、監獄としても使用されていたようだ。何回も外国に占領されて破壊されたこともあるが、今の城が復元されたのは1961年だとゆう。いまではリトワニヤの歴史博物館として、たくさんの道具や、装飾品が展示されていた。湖に浮かぶ赤レンガが美しい。
日本から20人ほどに観光客もきていた。バス停から歩いて40分もかかり、帰りは歩数を数えてみたら、3500歩もある。かなり遠いが美しい。
引き返して時間があったから、もう一つのKAUNOSとゆう街に行くことにした。これはさっき会った日本人が午後から行くと言っていたから時間つぶしに行くことにした。バスで1時間半ほどで、農村地帯をはしった。
カウノスのバス停についたら、日本人の若い夫妻がベンチにいたので聞いてみたら、31歳で結婚してすぐ会社を辞めて今年の2月から二人で世界旅行しているとゆう。南米からはじまりもう8か月ちかくになるとゆう。旦那はデザイナーだったし、二人で貯めたお金の続くまで続けるとゆう。僕も彼らの考えは若いから世界をみておくことに大賛成で、帰国しても就職とゆうことではなく、何か事業を起こせば必ず成功するだろう。と賛成し激励をした。金がなくなるまでといわず、金を稼ぎながら旅を続ける方法を提案した。幸い彼はギターが弾けるし、彼女は書道をやっているとゆうから、彼女には街頭で通行人にアルファベットの名前を日本の漢字に当字で筆で書き、漢字に日本での意味を解説し、彼らが喜ぶ’方法で大変喜ばれているからきっと多少のお金になると思う。提案した。旦那には日本の民謡や童謡などたくさんあるからやってみて請けがいいのをやればいい。子供も産みそれから後は考えが浮かぶものだ。とはなして僕もその後の彼らの活動を見守りたいと思う。メールも聞いたし、また彼らがどこを旅しているかも興味がでるとゆうものだ。成功を祈りたい。今夜は夜行で次の国に行くとゆう。旦那が奈良県の橿原で彼女は徳島だとゆう。
この街に来て知ったのだが、先日書いた日本人の杉原領事が6000余人に日本経由でに行くためのビザを日本政府の’了解なしに発給し、ユダヤ人に命の恩人だと感謝されている人の記念館がここにある「希望の命のビザの館」と日本語で表示がでている。
 1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。
 前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト。
 そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
 このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
 「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました
やっと辿りついたとゆう満足と感激である。日本人の岡山から来た3人の若い女性、それの20人の日本人の団体の見学者がきていた。は彼の卒業した早稲田大学が立ててくれたとゆう。
もうこれだけで今日来た値打ちがあった。
ホテルに’帰ったら、一昨日あったリトワニヤの日本語学科の女子大生から、僕の日記についての日本語での返事がきていた。
宮崎さん、
お手紙ありがとうございます。
今まで半分だけ読んでみましたが、時間がかかりました。でも、辞書を使って、分かりやすいです。私は今少し忙しいので、週末までにお手紙を全部読むつもりです。すぐ後で返事します。
今週、リトアニアにはnowJapanというフェスティバルが行われているのを知っていますか。これはリンクです。→ http://www.nowjapan.lt/en  リトアニアにいれば、来てください。では、私がフェスティバルにボランティアの仕事をしているので、いろいろな準備をしらなければなりません。
今、日本語の宿題をしているところです。

ロシヤノサンクス・ペテルブルグの女子大生から (ロシヤ語を日本語に翻訳したもの)詳細ヘッダー
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明日私は学年で初めて学校へ行こう!私はサンクトペテルブルグであなたを覚えている限りでは、まだ20日まででしょうか?
あなたは大使館で何か問題がありましたか?
に関しては、ヴァレリア

by akinishi1122 | 2013-09-10 12:57

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