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ストックホルム・ノーベル賞記念館

(21)2013年8月10日 ストックホルム、ノーベル博物館
盆参り妻の身体の車上かな 2000キロ盆参りの妻はがんばって僕のかわりに兄の初盆に行ってくれるとゆう。
この船にはおそらく3000人ぐらいは乗っているのであろう。えらい人々だ。
ストックホルムに9時半についた。船の案内所でストックホルムの5日間の交通フリーチケットを買う。これで地下鉄、バス、路面電車が全て乗れるらしいから、便利だし、高齢者の割引もしてくれた。ホテルにはバスと地下鉄を乗り継いで駅についた。
駅の外に今日は土曜で、人が誰もいなかつたが、ビルの中にいる人にホテルの場所を尋ねたところ、「私日本語わかります」とゆうのだ。聞いてみると母親が日本人で、父がスウェーデン人、そして自分も中学まで岡山に住んでいた、とゆうのだ。ストックホルムで初めて話した人が、なんと日本語を話せる人とゆうのは奇跡的であろう。「まあはいりなさい」と事務所にいれてくれた。自分は38歳で商業写真の製作を’しているとゆう。母親は離婚して東京いるが、時々あいにきてくれ、日本のお菓子なども送ってくれるとゆう。自分は結婚していないが、同棲しているらしい。これで3度目とゆう。最初の彼女とは7年半一緒だった。芸術大学のときからで、その人と別れたがいまでは親友としてつきあっているが、相手は他の男性と結婚しているが付き合うとゆうことは、理解できないが、彼にいわせると、こんなのは普通であるらしい。
子供は産まなかったのか、とたずねると、おたがいに芸術に熱中してお互いが生む気にならなかっただけだ、とゆう。そんな生活で子供が生まれたらどちらが育てるのか。ときいたら、男性も育てることがあるらしい。どうもそのあたりがまだ理解がむずかしい。
人によって違うが、男性も育てることがあるし、2年の育児休暇がもらえるとゆう。そのあいだは給料の80%が2年間にわたって、男女とも国が支給してくれるとゆう。
だから女性でも日本のように子供ができたら、仕事のために子育てができないことはないとゆう。離婚しても生活の心配がないのである。こんなことを聞くと、どうやら、全ての国民の生き方に国の社会保障の裏ずけの上に個人の生き方が成り立っているようだ。だから、日本でいまの政府の考えの方向である「自己責任」とゆう個人を突き放した政策は本来国家が国民の幸せを守るとゆう日本国憲法の精神から段々離れていく日本と全く違った、いわば日本の憲法の精神に,ここスエーデンの方が日本国憲法に近いのではないかとさえ思える。
この人の名は名刺に日本文字で「アナグリス未樹」と書いてある。日本語が通じてスエーデンの生活を聞けるよい友人ができた。
ホテルに入ってパソコンを開いたら、ボストンの稲田婦人から便りがきている。僕のブログを丹念に読んでくださる稲田さんは僕にとっては心の安らぎと僕の温かい理解者として旅の悦びでもある貴重な方である。
お元気に長旅を続けておられるようでうれしいです。
長くなればなるほど更に新しい出会いを求めてモリモリとエネルギーが湧いてくる様ですね。
今回のロシアからフィンランドでの出会いと深い洞察にはとても感銘を受けました。

アメリカに住んでいると北欧についての話題がテレビにも新聞にもほとんど言っていい位ありません。
それはアメリカとは利害関係が少ないからでしょうか。
フィンランドはレーニンの植民地解放理念の下に独立し
その時の影響で社会福祉が発達したとの事。
気候の関係でホームレスだと凍死してしまうので、
手厚い保護を受けている等、興味深いです。
又子供達に競争させない教育をしながら、学力世界一というのはどういうんでしょうね。
アメリカの教育は学力は低いですが、
自分自身の考えを持つ様に育てている様に思います。
そしてアメリカの人達はおしなべて独立心が強いですが(日本と比べて)
老後はお互いにやはり頼りになるパートナーを必要としている様に見受けます。
フィンランドとアメリカの結婚率の違いはわかりませんが、
フィンランドの年取ってからの一人暮らしがアメリカより多いとすれば 
それは老後の手厚い福祉で何の心配もなく一人で自由に生活出来るからでしょうね。
旅行記を読んで色々と考えさせられました。
今まではロシアも北欧にも全く興味がありませんでしたが、
次回行ってみようと思います。

こちらはすっかり涼しくなって、菜園は今がトマトの最盛期です。
オクラやブルーベリーも沢山取れて友達におすそわけです。

お身体にはお気をつけてお元気に旅をなさいますように。  稲田美紗子

サンクスペテルブルグからヘルシンキまでの列車で一緒で、僕のカメラの日付が違っていたのを直していただいた加古川の西口さんからも、帰国翌日から仕事に復帰し猛暑とたたかっているお便りがきた。
ホテルに落ち着いて家に電話を入れたら、明日から兄の初盆のために天草に一家全部で車で行くとゆう。日本は熱中症で1500人が倒れるほどの暑さだから、そちらでも頻繁に水分をとるように注意された。車であれば天草へも行けそうだと秋子の体のために車にしたそうだけど、うまく耐えてくれたらいいいがと気になる。
午後からストックホルムの中央駅まで歩いて10分ほどだった。ここは2年前に来た時ホテルがなくて、大分苦労してたくさんの人々にお世話になった駅だったから、懐かしい。
スエーデンとゆう国は王制だが、日本とおなじように王は象徴であり、内閣が決めた行事に参加し、署名したり、外国の賓客の接待のときだけ登場されるらしい。これが日本のように敗戦によって急激に変わったのではなく、1917年のロシヤ革命の影響をうけフインランドやノールウェーなどと同じく社会変革の波が押し寄せるのを防ぐために険しくなった東西の緊張をやわらげねば、社会変革が陸続きでせまってくるためのいわば変革を事前にうちだすために東西の中立政策に切り替えた妥協での先取りの王政改革だったのではないかと思える。
ここストックホルムについては朝鮮戦争が始まった1949年ごろアメリカのトルーマン大統領が朝鮮で原爆を使う方向に動きだしたとき、イギリスのバートランド・ラッセル氏(哲学者、ノーベル賞)の呼びかけで、原水爆禁止の世界の世論をつくるためにここストックホルムに世界中からの平和運動家たちがあつまり「原水爆使用反対」の運動が開かれた場所がここだった。その時僕は高校1年生だったが、原爆反対の署名集めで沢山集めたことがある。そして教頭から怒られたゆかりのある、その第1回大会が開かれ、現在も毎年日本のヒロシマ、ナガサキで原水爆禁止世界大会が開かれている。その歴史的な土地なのであり、僕にとっても想い出になる土地にきたのである。
地下鉄で湾にでた。僕はこの湾の景色は世界で3本の指にはいる絶景だとおもう。おそらく300年前の建物が保存され、その周辺には新しい建物が禁止されているのだろうと思う。そして、これも古い帆船が数隻停泊しているのが、静かな湾を和ませてくれる。
ここで結婚式の写真が撮られていたが、そんな記念になる背景である。
ノーベル賞記念博物館にはいった、説明によると、ノーベルはダイナマイトを発明したことは知っていたが、そのダイナマイトを使った兵器の会社を経営し、世界に販売し利益をあげ、巨万の富をえていたとゆう。だから死の商人ともいわれていたが、兄が死んだことを新聞社が間違えて「死の商人死す」と報道したことで、自分が、世間では「死の商人」と言われていることにショックをうけ、自分が人間の進歩に役立ったことは事実なのだから、ダイナマイトで儲けた一部や蓄財した利息は、科学や人類に役立つ医学、経済、文学に貢献した人々に「ノーベル賞」として与えることを死の2年前に遺言としてのこしたとゆう。だから現在のように認知されるまでにはさまざまな経緯があったようだ。たとえば科学者で平和運動をした人とか、共産主義の同調者などは受賞の対象から外されたため、アメリカを中心とした西欧の人々にかぎられていたため、いくら業績があってもあくまで西欧の思想や体制に属する人々が対象であったらしい。でもこれだけ権威ができてくれば、真の人類の進歩が思想や体制だけに偏ることは価値が薄れるとゆ時代になって、フランスのサルトルも実存主義哲学、作家であり平和活動家であっても選考されたようである。ところが、サルトルは受賞を拒否している。もう一人科学者で平和運動家も拒否しているのは、アメリカを中心とした価値感で選考されているし、平和運動をしたとゆうだけで選考から外されているひとたちがいることに反発したかららしい。(平和運動が悪いとはおかしなことで、ノーベルの精神とは矛盾するのではないかと思うのだが)
サルトルにいわせると、学術や平和が特定の体制だけにあたえられるべき性質ではないはずだし、このノーベル賞をもらうことで、自分の行動が制約されるのでは自分の考えと違う。とゆうのである。
そんな意見も世界では底流に広まったようで、作家でソビエトロシヤのソルゼニチンの「ドクトルジバゴ」を書いたことに文学部門で賞を与えようとしたが、その内容がソビエト体制を批判する内容で、そのことを西欧が利用すると反発したため、ソルジニチンは受賞にゆかなかったことがあったが、デンマークから来たとゆう、歴史にはいろいろな問題を抱えて今日にいたったようだ。日本の佐藤栄作元首相がなぜノーベル平和賞なのか、造船疑獄で金まみれになり、法務大臣の指揮権で逮捕を逃れながら首相になったのだから、日本でもびっくりしたほどの事件も想いださせることだ。
夜ホテルのフロントでパソコンをやっていたら、日本人の関学大の男性が来た。彼はヨロッパをユーレルパスを使って昨日デンマークから来たとゆう。一人旅ながら初めての海外旅行で一人とは勇気があるものだ。明日はノールウェーに朝早くたつとゆうから、僕のウイスキーでとりあえず乾杯して旅の話をはじめた。彼は理学部で3年だが、就職についてはあまりス心配してないらしい。3人兄弟だから、親に面倒をかけられないから、夜はピザの配達のアルバイトをしているらしい。それで授業料や」旅行の費用を稼いできたとゆう。もうこれだけでこの青年はなんでもできる素養をもっている。と思う。将来は自分で事業を起こすのが夢だといっているから、今までバイトをし、勉強もして、彼は学校以外のこと、生きる力と社会の仕組みを理解したように思う。だから僕はこの青年の希望をかなえる力になってやりたい気持ちになってきた。日本一にしたい人々がどんどん増えていくこのごろである。
そのためには、今から考えかたを創らねばならない。それは、物事に対して。自分の考えを必ず持つことだ、自分の考えで行動し、失敗することだ。それを繰り返すことによって自信とゆうものが生まれる。自信とゆうものは教育で教えられるものではなく、自分の考えで行動し、そして失敗し、次に成功することで自信とゆうものはうまれるものだ。と話ておいた。どうやらその気になって出発してくれるようだ。

by akinishi1122 | 2013-08-11 18:08

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