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70歳の語学留学 (2)

(2)ケンブリッジ留学2005年7月11日(月)初登校
朝は4時前に目覚めた。日記を書いていたら、まだ書きおえないのに、8時前になってしまった。急がねばならないと慌てたがまだ誰も起きていない。
なぜだろうと、後で聞いたら、まだ早いという。僕の時計がアムステルダムの時間になっていて、1時間早かったのだ。ミッセルが朝食を箱に入れたコーンや色々出して、7種類ぐらいの中でどれを食べてもいい、また毎日変えても自由ということで、牛乳と皿をだしてくれた。こんなのが普通の朝食らしいが、たくさんメニューがあるから、好きにとれるから気楽だ。とりあえづ今日は1種類で食べてみた。おいしいものだ。これだと朝食には問題なく慣れそうだ。最初の登校だから、サウジアラビヤの同宿のYazeed、ヤセドと発音していた、ヤセドとは日本語で痩せというのだが彼は逆でまるまると太っている小、小錦のようだからおかしくなった、いずれ、本人にも日本語の意味を教えてやろっ!と
彼は17歳という、もう2週間ここに滞在してるらしい。彼に僕を学校まで送ってくれるようミッセルが頼んでくれた。
8時半に家を出た、バスは20分ぐらい乗るが、市内循環バスで(sity 1)というのに乗るそうだが、切符は1週間単位がよかろうと、回数券を買った。95ポンドだが、これを運転手が販売している。今後は見せるだけでいいらしい。同じバス停に日本人女性がいたので、彼女は来て1週間になるらしい。別のバスに乗りこんでいった。日本人の学生も大分いるようだ。
バスの中にはレンブラントの絵のような美しい学生が乗りこんだり、僕の前の席の娘も素肌の美しい、鼻がツンとして鼻の穴が少々上を向き、大きい鼻だが実に美しい。ここは若者の街だ。学生がほとんどで小学生の女の子がまた可愛らしくて素肌と眼が良い。なんて素晴らしい所に来たことか。と思うことばかり。
街道が緑がいっぱい、空気が綺麗、同じような家並みだが、全然気にならないし、むしろ、これがこの街を美しくしている。何回も曲がり、まがりしたから大変だ。降りてからも曲がり曲がりして10分ほど歩いて学校に着いた。これではとても一人では帰れないだろう。だいいちバス停まで帰れるか、そしてどこのバス停で下車したらいいのか、ヤセドが連れてきてくれてよかった。
Regento Canbuligi の看板は理香がいたブライトンと同じで、日本の学校といったイメージではなく、邸宅のようだ。
もう学校では僕の名簿が出来ていて、今日のクラス分けテストが用意されていた。15・6人いる生徒は全て白人で男性はもう一人の少年だった。
40問ぐらいの質問に、AからDまでの答えを○で囲むのだったが、後半は意味が解らず、完全にはできなかったから、多分一番下のクラスになるだろう。それは覚悟していて、それからやり始めなければ、僕の英語は幼稚だから、それにしても、こんな白人が英語の勉強に来るとは、どこの国の人だろう。どうもペラペラ会話しているところをみると、レベルの高いクラスかも知れない。だから喋っている言葉が英語なのかどうかも解らない。若い女性たちばかりで、おそらく高校か大学生ぐらいの感じだ。
レベルが決まって行ったクラスは、さすがに、さっきの生徒たちは一人もいなかった。
僕のクラスはサリーを着た婦人が5人、黒人の婦人でTシャツが一人、男性は僕以外に3人合計10名のクラスになった。じ自己紹介を一人一人したがモーリタニヤということが聞きとれただけで、特定できる人は一人も覚えられなかった。だが全てアラビックに違いない。高齢で多分60歳に近い女性のサリーの婦人は、教師だということはわかった。40代の女性でいずれもサリーが3人、それ以外の女性は黒人だが、20歳前後だろうと思う。サリーの女性で、向かいに座った婦人の写真を撮ろうとしたら駄目といわれた。宗教的な点があるのかもしれない。
第一授業は、女の先生で、一人称、二人称、三人称の使い方だった。午後は別の先生で、always,,samtime,usually,never,の使い方だった。なるほどと思う、日頃よく会話に使うことばかりで、基本になるからだろう。授業中よく喋るのはアラビヤ語で互いにやっているから、理香の留学でも報告があった、ガヤガヤはこれだな、と解る。アラビヤ語は20カ国同文字、同音だから、なんでも通じあって話している。国が違っても言葉や文字が共通していれば、こんなアラビックを相手にキリスト教文化のアメリカがどんなにイラクを叩いても彼らの共通の宗教と言葉がこれだけ密接なのに、心をつかめるはずがないと感じる。アメリカ、イギリス、日本などは、ドンキホーテみたいな感じがする。
昼食はどうしょうかと、一人で歩いて入った店に丁度ヤセドとそのグループに居た。
そこに同席させてもらったらイラン人の店だという。イラン料理だから、ヤセドに任せることにした。すると自分たちのは辛いから、と僕にはハイシラシスみたいなのを注文してくれた。肉が入っていて、やはりハイシライスの感じだ。それをご飯にぶっ掛けて食べる。美味しいとは思わないが、食べれないことはない。これにファンタを1缶とって5,5フランだった。ヤセドとその友人の分を払おうとしたが、受け取ってくれず、全て個人精算でしてくれた。ヤセドの仲間はそれぞれ国は違っていても、言葉で通じあえて、友達になったのは、ここに来てかららしい。ドバイからという生徒だけは自分で教えてくれた。また僕のクラスのサウジアラビヤも一人入っている。写真を撮ったので各人に送ることにした。ヤセドが帰りは一人で出来るか?と聞いてくれたので、自信ないと言ったら、授業が終わったら玄関に待っていなさいといい、つれて帰ってくれることになった。外は暑いしとてもバス停まで帰れる自信、がない。またバスに乗れたとしても、家のバス停がどこなのかそれもはっきり覚えていない。もうこの際ヤセドに頼るしかない、もし彼がいなければ、タクシーしかなかったかも知れない。帰りは違うコースの道を歩きバスに乗る。鉄道の駅前だ。ここは今朝来たところと違う、だから、また混乱した。こんなんだったら明日もヤセドに連れてもらわねばならないかもしれない。
ケンブリッジがこんなに大きな町とは驚いた。日本みたいな派手な看板や広告がないから、目印になるものがない。いずれの建物も古い似たようなものばかりだ。帰宅したのは4時ごろ、子供のToshuaが一人でテレビを観ていて、僕にしきりに話かけてくるのだが、さっぱり解らない。ここの子との会話がスムースに出来るようになったら、一人前になるのだろうが、子供は僕の語学力などお構いなしだ。だから勉強にはなるかもしれない。可愛い白人の7歳の坊やだ。
眠くてたまらないので、5時に床についた。目覚めたのは9時だった。時差ボケである。ミッセルがすぐ夕食を作ってくれた。鶏肉と野菜炒、それに味つけご飯。この家の脂は苦痛にならない。オールドパーを持ってきたから、水割りで飲んで食事した。蜜柑やバナナもあるから、自由に食べなさいといわれたので安心だ。ヨーグルトもいただいた。食事はこれで十分だ。他の生徒はそれぞれにもう夕食は済んだらしい。
ロシヤ人のステファン16歳、中国の李意16歳、彼はドイツ語も習っているらしい。英語は大分出来るようだ。中国語だから筆談だったら彼とは通じあえる。僕の電子辞書の7ヶ国語をみせたら、「なんだこれは、メイドイン、チャイナと書いてあるではないか」。と言っている。ここで2年間勉強してできればケンブリッジ大学に入りたいらしい。ロシヤのステハンは総合技術を学んでいるらしい。シベリヤから来たという。背が高く180センチはありそうだ。ここに来るのだから、父は相当な収入がある家族に違いない。李意君はお母さんがドイツ語ができるらしい。まだあどけない顔をしているが、好感の持てる少年だ。これらの会話はすべてミッセルが助言しながら、解説してくれたから、ホームステイの値打ちがこんなところにある。学校で学びこの家庭で実使用を訂正してくれる、こんな好条件は日本ではとてもできないから、来てよかった。毎日これが続くのだから、効果は相当期待できると思う。学校ではエクスカーションといって毎日小催や土日は小旅行を計画してくれるらしいから、慣れたら是非参加したいと思う。

by akinishi1122 | 2010-09-19 06:47 | 旅行

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