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エッストニヤへの日帰り

スカンジナビヤの旅(6)
エストニヤへの日帰り 7月23日(水)
 昨日の夕方から腰が痛みだしたから、今日はパソコンは持たないで歩くことにした。おそらくパソコンの重みが原因だろうと思う。日本への通信のためには出先でパソコン店に寄り、送信が必要だからだ。
エストニヤ行きの船が8時と聞いていたからタクシーを呼んでもらった。船着場は昨日福原さんから聞いて大体分っているつもりだったが、タクシーに乗るとどうやら僕の感違いだったようで大分遠いから、タクシーにしてよかった。メーターはあったが少し前で10ユーロに止めてくれたのは、ホテルからの指定だからおそらく固定にしてくれたのだろう。やはりホテルに頼むことは安心だということを知る。
豪華な客船でビルにしたら10階ぐらい海面から浮いている。やはり国際航路だからであろうか。船賃は往復で30ユーロである。後で気付いたがひょっとしたらユーレルパスが使えかもしれなかったが、1000人ぐらいの乗客が並んでいるので買うのに急いでいたからそれどころでなかった。出国だからパスポートが必要である。えらい人で殆どが僕と同じような旅行者のようだ。子供連や老人夫妻が多いのでうかがえる。
8時丁度になったら動きだしたが外の景色の動きでそのことが分るほど、動きだした感じがしない。さすが大型客船だ。
動きだしたらすぐにビールなど飲みだしている人ばかり。フインランドのビールは美味い。僕がいつも飲んでいるアサヒよりも少し麹の味がする、なんかまろやかで、僕には合うようだ。相席になったフインランド夫妻は67歳という。奥さんがよく喋る人で旦那は船員だったらしい。いまでもそんな服装が好きのようで一目でわかる。旦那は胸の病気で手術をしたし、奥さんも乳がんの手術をしたがこのように元気に旅ができるという。そして年金ぐらしだが大病の手術だったのにお金はいらなかったらしいから、日本とえらい違いだ。どうやら生まれはロシヤらしい。兄弟はロシヤに住んでいるが、自分はロシヤが嫌いだといっている。その話をする時は顔の緊張が怖いほどになっていたから、何かあったのだろう。
船ではちょっとした演奏の舞台があって、早々からダンスが始まっている、踊っている人はみんな老人夫妻だ。日本でも社交ダンスは公民館などでやっているがみんな老人ばかりだが、これは日本と似ているものだ。上手もあれば下手もいるのは微笑ましい、下手の踊り手でも旦那にうっとりと抱かれて踊るのをみていると、自分は上手に踊っていると思っているのだろう。ビールを飲みながら見物するのもいいものだ。
ほかに日本式のカラオケもやっている。イギリスでも「karaoke」というバーが出来ていたから日本からの文化がここでも定着しているのが面白い。
カラオケの席に行ってみtら70歳夫妻と孫娘15歳の高校生の隣になった。日本の東京、大阪、京都、奈良、広島に行ったことがあるという。日本といっいたら必ず広島がでてくるのは、やはり原爆が世界に知れわたっているからだろうか。
日帰りでエストニヤに孫を連れていくのだから年金生活でものんびりと、こんな老後に日本もなりたものだ。この家族とは帰りも一緒になって、向こうから声を掛けてくれたから気付いたのだった。
帰りはダンスしていた夫妻と同じ席になり、この夫妻はダンスの中で一番下手な組だったから印象にあるが、先方も僕がエストニヤの教会の階段で休憩していたのを知っている、と話てくれた。そういえばエストニヤでは沢山の観光客でごったがえしていたのに、日本人らしい人には合わなかったから日本人として僕も珍しく目に着き易いのかもしれない。60歳を過ぎているがタクシーのドライバーといっていた。ヘルシンキから列車で30分のところらしいが2ヶ月の休暇があるらしい。こんなにたくさんの人出なのはやはり冬は昼が短いし寒いから夏場にどっと出かけるのだろう。
エストニヤには3時間ちょうどの11時についた。ヘルシンキでは青空が無かったが、ここは青空が澄み切ってそれに暖かだ。空気も綺麗な感じがする。1000人の人々が街に向ってあるきだした。いきなり昔からのレンガ造りの煙突が目にはいる。高さも20mぐらいあり、ビールの工場ではないかと思う。緑の中に印象に残る。エストニヤというところはつい10年前まではたしかソビエト連邦の一員だたうたのだが、街に入ったら、いきなり高い教会のとんがり塔が際立って高い、そして銅版だからグリーンである。それ以外にたくさんの教会がおそらく20ぐらいはあるだろうか。街全体が世界遺産になっているらしい。街には近代的なビルが殆どないから黄色の瓦が街全体を明るくしてくれる。道も狭いし道は丸い石の埋め込み、しかも直径が10cmぐらいのだからでこぼこで、車はスピードだせない。そこえ世界からどっと観光客だ。ここはバルト海の交通の要所らしく世界からの船が立ち寄るから港が沢山の人々を集めるところらしい。そのため、ロシヤやスエーデン、などの植民地としてながく利用されていたようだ。そのためにその時々の支配者がそれぞれの文化にもとずいた教会が建てられ、たくさんの教会がそのまま残っているらしい。それが幸いして現在の街が世界遺産となったというわけだ。
感じとしてはイタリヤのペルージャの街に似ている。細い路地の坂道にこの国の文化工芸の店が、いまでも陶器やガラス細工を職人が作っていて、そのまま販売している。教会もキリストの十字架の絵が少しずつ違っているのだから面白い。それぞれの時代と国によって教祖様の描きかたが違うのだから、フォイエルバッハが言った「神が人間を創ったのでなく、人間がその必要に応じて神はつくられる」といったことの現実が目の前にみれるというものだ。
ユーロ貨幣が使えると聞いていたから換金しなかったから、さすがトラム電車には乗れないらしい。店でタリンの写真集をかったらユーロでいけた。日本人を見たら「日本語の説明書がありますよ」と若い娘に呼び止められたから、それで街の解説が得られた。
解説書によるとギルド組合はここで最初に誕生し世界にひろまったらしい。そのギルド(職人組合)の頭が黒人だったというから、アフリカからの職人がここで家具などの製造して相当ながく組合が産業の発展に貢献したようだ。技術の発展により協業が必然的に発展して製品になるのだから、その指導者が黒人だったとは興味深い。日本でも幕府が期待していなかった商人がやがて幕府を倒すまでの資本主義の基礎を作ったのだから、最初は思いもよらない階級がやがて国の屋台骨を倒すのは歴史の必然のようだ。
ロシヤに対して塩の供給がこの地で重要な交易であったのは、食物貯蔵に塩が大きな役割を果たしたので、塩の仲介によって栄え、ロシヤはここが大切な窓口だったから、20世紀の最近まで独立させなかったのが分る。ついソビエトが崩壊するまで、連邦の一員であったのだから。
街全体を写真でみると随分イスラム教の教会らしいドームも残っているから雑教の街ではないかと思える。
街には観光客が多いのについに日本人とは合わなかった。
帰りの船は5時30分だったが来たときの客が殆どのようで、ダンスホールでは朝のメンバーがまた踊っていた。僕はダンスを見ながら日本の歌曲の管弦楽をCDで聴いていたから、踊りの曲と違った音楽で観ていたことになる。だから踊りがちぐはぐに見えることもあったが楽しい3時間の船旅だった。
インターネットカフェでメールを見たら油谷氏から英文の手紙だ。「あこがれのヘルシンキからの便りを楽しみにしています、自分も是非バルト3国に行きたいと思っている」とのことだ。
また報徳学園が滝川第二にコールド勝ちし25日に神戸広陵との決勝戦になるらしい。
船の中で話した人がトウルクの人で海岸が綺麗だから是非と薦めてくれたから明日行くことにしたい。クルーズがお勧めだったが、とても時間がとれないから観光だけにしたい。だが一番古い街らしく、この国では第3番目の都市らしい。
今日は遅くなったが10時30分現在まだ外は明るい。

by akinishi1122 | 2010-09-03 10:51 | 旅行

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