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ウラン・ウデ市内観光

シベリヤ鉄道の旅(8)7月23日ウラン・ウデ
ウラン・ウデが近くなったところで日本への電話がやっと通じることできた。家は出ないし理香に掛けたらえらい息がせきこんでいる。今出勤の途中で駅の階段らしいからのようだ。5日間も連絡がとれなかったいきさつを説明したが、旅程表を見ていたからそんなに心配はしてなかったが、2日間の日記がブログで読めていたから電波の事情だろうと解釈していたらしい。続いて信顕にも電話いれたら、今後夜8時以後だったら、パソコンにスカイプ(テレビ電話)を接続しておくからと準備しておくとのことだ。佳子にもやっと繋がった。今日はきあらのピアノの発表の日で今車の中だという。きあらは少々熱があるが頑張って発表をすると言ってるらしいが、可哀そうだ。きあらに代わってくれて声を聞かせてもらったから、がんばるように励ましておいたが、元気な声で「頑張るね」といってくれた。今日は由希さんが運転しているらしい。
11時7分にウラン・ウデ駅についた。日本人グループの皆さんが列車から降りて僕一人を見送ってくれた。明日イルクーツクに僕も行くのだがこの人たちは僕と入れ違いにイルクーツクを発つてモスクワに向かうらしいからこれが最後になるから、仲間にいれていただき、明日から完全な一人になるから少しさみしくなる。
みんなも、残念がってくれ、一人旅だから気をつけるように励ましてくれるから、少し胸にこみあげてきた。
列車の7号車にはちゃんと出迎えの女性が僕の名前を表示した紙を掲げてくれていた。
僕は日本人グループと別れの記念写真をとり後ろ髪を引かれる思いで最後の階段から丁寧にお礼の頭を下げて挨拶したら、みんなまだ僕の姿を追ってくれていた。
ホテルまでは10分ほどで着いた。なかなか洒落た建物で高級ホテルとみえる。出迎えのガイドさんにここの観光をするために案内を聞いたら、日本語のガイドだったら1500ルーブルというし英語でよければ私は1000ルーブルでいい、というから彼女にお願いすることにした。
彼女は英語ができるしなかなかの美人だ。小学校の英語の教師をしてるらし。いま3か月の夏休みだから頼まれてガイドをしているという。3時に迎えに来てくれることになった。
ホテルでパソコンができるというから接続を頼んだが二人がかりで接続しようとし、僕の部屋まで来てくれてやってくれるのだが、結局だめだった。
だけどもフロントの係の女性がパソコンの技師までつれて僕の部屋まで30分ぐらいも僕のために接続の工夫をしてくれるのだから、その親切が嬉しい。やはり大都会でないからだろうか。僕ももう5日分の日記を送信してないし電話も通じないしコンピユータもこの5日間開けないでいるからパソコンが使えると言われたときには嬉しかった。でもこんなにまで親切にしてくれるのだから、もうその親切だけで辛抱しようという気持ちになった。いろいろサービスというものはあるが、人の心を読み取ったサービスちというものはそのホテルの値打ちを数倍あげるもものだと思った。このホテルが忘れられないものを与えてはくれると思う。
パソコンはつながらなかったが、ホテルのパソコン部屋ので日本からの通信は開くことができた。東京の井上さんから僕の第1便を見て早速返事が来ていた。「またまたの快挙、私も77歳になってやっと妻君の許しがでそうで宮崎さんのような旅に挑戦してみたい気持ちになっています」とあった。井上さんからは僕こそたくさんの刺激をいただき、ヴェトナムでの事業開始や北京での中小企業の相談センター開設、ハワイでの同友会支部設立など目覚ましい活躍などは僕の生き方のヒントを与えてくれた人なので、大変うれしい便りであった。だがホテルのパソコンでは日本語の返事ができないから残念だ。こんなこともあっかて、ますますパソコンが使える店を探さねばならない気になってくる。
ホテルのレストランで昼食をとる。僕が一番だったが、続々客がきてたちまち満員になる。その客のほとんどがどうやら軍隊か警察のような制服を着ている。女性も肩章をつけていているから、おそらくそうだろう。近くにそんな建物があるようでもないのにどこから来るのだろう。
ホテルのレストランだから高いのかなと思っていたら150p(500円)だった。
ガイドのイリナさんが約束の3時に迎えにきてくれた。出迎えの時と服装もかえ、赤のワンピースにサングラスである。いちだんと美しくみえる。英語は大学で学んだらしい。
歩いて5分もしないところにレーニンの頭部像が見えてきた。これは本に出ていたからここの一番の象徴なのだろう。本当に頭だけで7.7mの高さ、重量が42トン1971年の完成。モスクワで行われた展覧会での国家賞を受けたとのこと、なぜ頭部だけかは諸説があるが、この奇想天外な像には、ウラン・ウデの人々のブリヤート共和国を承認したレーニンに対する畏敬の念がこめられているという。
この一角がウラン・ウデのほぼ中心のようで、レーニン像の前は大きな広場となっていて、100m四方はあるだろうが、今日は床の全面改装の最中である。タイルを張り詰めれているから、完成したら素晴らしい広場になるだろう。名前はソヴエト広場という。
像の背中に議事堂があり、郵便局やオペラ劇場、バレー劇場もある。また古くからの木造の家屋も残っている。僕の関心事はやはりパソコンの使える店だが、見つけてくれたのだが、やはり僕のパソコンに接続できないから、接続の器具を4店ばかり探してまわってくれた。イリナさんがいてくれなければとてもこんなに探すことはできなかっただろう。そして最後の店ではパソコンの技術者を呼んでくれての操作を30分もやってくれたが、なにせ日本語での操作内容の説明だから、僕がそれを英語に翻訳しそれをイリナさんがまたロシヤ語に翻訳するという作業だからなかなかはかどらない。接続の器具も買ったのだがやはりだめだった。
この町はモンゴルのウランバートルへの道と鉄道の交差地だからの活気があるようだ。
そして大分高地にあるようだが、盆地のようでまわりには山が見えない。僕が10年前にエベレストに登った勿論頂上ではなく4600mだが、と言ったらイリナがすごく驚き「そんな年でよく登れましたね、私の父は58歳だが貴方みたいな元気はない、尊敬しますね」といってくれた。案内のお礼にビールを御馳走しようと言ったら、「ウラン・ウデに相応しい店があるから案内しましょう」となり連れてもらったら、モンゴルあたりの遊牧民の家のテントの店である。そこで遊牧民の料理である豚まんのようなのをとってくれた。味も豚まんと同じ感じだ。彼女も飲めるから何回も乾杯をしながらの夕食だった。二人分のビールも含めて270ルーブルだから900円ぐらいである。彼女は奇麗だし朗らかで明るいからこの国がいっぺんに好きになった。モンゴル系の顔だから、日本人とほとんど変わらなく、最初迎えに来てくれたときは「日本人ですか?」と聞いたぐらいである。
ホテルまで送りとどけてくれ、明日の9時50分に迎えに来ますと言ってくれて別れた。
彼女に日本の扇子の土産をプレゼントするつもりだったら、街頭で彼女は僕のプレゼント用にもってきたのと同じようなのを買ってしまった。その扇子がいるくらい昼の日差しは暑い。ふたりとも汗をふきふきの観光だった。
ホテルに入ったがここの日没は9時をまわれねば夜にならないので、少々眠かったが、街にでることにした。いつものように路面電車に乗つた。やはり車掌がいて料金の徴収にくるのだが、ここは8pだった。そしてUターンでの引き返しにも料金は請求がなく結局一周したことになる。中心以外はアパートで個人住宅の1戸建てには気付かなかった。
だけども緑が多いことと、棟と棟との間隔が相当のゆとりをもって建てられているから、、やすらぎがあるようにみえる。
帰りに大分手前で降りたら、やはり道路というのは直線でないから、大分歩かねばならなはめになった。やはり歩き方の原則は乗った地点まで来て降りることをしなければ思わぬ遠まわりになってしまうことの教訓だった。
9時には床についたが外はまで太陽がある。そして帰る時もレーニン像の前の工事の仕事は続いているから、労働時間の厳しい国なのだが何人かの交代でなければ厳しすぎることになる。

by akinishi1122 | 2009-07-26 11:11 | 旅行

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