<   2011年 01月 ( 61 )   > この月の画像一覧

インドの旅()2011年 1月27 日

インドの旅2011年1月27日(6)ニューデリーからボンベイへ寝台列車
10時にチェックアウト時間に扉をたたくから慌てて荷物の整理してホテルの旅行会社に降りたら、「そんなに早く起きなくてもいいのに」というからボーイにそのことを伝えてなかったようだ。5時の列車だから相当時間があって手持ち無沙汰だからパソコン店に行って家や友人への通信についやしたがまだ時間があまる。
家には「毎日電話メールを試みるのだが送信できませんでした、と表示が出るからこのパソコンメールで今日までの様子は見てください」と送信しておいた。
福島氏から「カースト制度などはやはり現地に行かねば理解しにくかったですね」とあった。
昼食をとるための中央駅でレストランに行ったがランチを食べている人が4種類ぐらいおかずを手で食べているし、レストランといっても埃だらけで、掃事してあるようには見えないのである。食べる気になれず、引き返しホテルで頼むことにした。
待っている間にホテルの玄関の外にでたら、ここのボーイがいて、リヤカーで果物を売っているのの葡萄を買っていた、そして僕にも買えと勧めてくれたから適当に買ったら、自分の買っていた葡萄を僕の器に入れて、その分も僕に支払わせて自分のぶんだけ持ってさっさとホテルに入っていくのである。こんなことも少しの知り合いだったら平気で行われるので、あっけにとらわれてしまった。これも習慣なのだろうか。
中華料理をとってもらったが、これもインド流の中華料理で形だけは焼き飯のようだったがインド料理を食べているような感じあだ。
これだけの時間を使ってもまだ5時間も余裕があるから前の賑わいの中から人々の様子や表情を写真に納めることにした。男性の頭にまいた帽子の布などは映すのに協力してくれたし、女性のサリー姿も撮った。多分宗教によっての違いがここでは大きな違いなのかもしれない。
4時半頃ホテルのボーイが駅まで荷物を運んでくれたが、駅につくと、赤帽の様な荷物運搬人にバトンタッチしてくれ、ホームまで運んでくれた。この人たちは駅でのお客の運搬専用のカーストの人らしい。たくさんの赤い服をきてお客をまっている。
 1等車に乗ったら部屋の僕の隣が女性でなかなか上品だし、サングラスをかけ顔も白人のように白い、そして理知的である。インド人でもこんなに肌が白いひともあるものだと初めてみた。だからといってヨーロッパの顔だちではない。
息子さんが通路をはさんで窓際に席をとっている。この婦人は5時間ぐらいで降りるらしいが、声をかけたら愛想よく応じてくれた。主人はカバンの製造会社を経営していて、家にはサーバントが4人いる。そのうちの男性は料理人であとは家事全般をやってくれているらしい。日本にはこんな家庭は経営者でも少ないのではないかと思うが、賃金はほとんどなく食べるのと食事をさせればいいというのだから、ちょっと今の日本では考えられないことだ。僕の兄ぐらいの子供の時は家にもそんな人がいて、子守り専用の女中さんがいたらしいが、僕の時代にはもういなかったから、日本との70年ぐらいの開きまだあるようだ。
 5時に発車したらすぐボトルに水、次に紅茶がでた、その後で夕食がでて、チキンの炒め、スープ、菓子パン、ご飯である。スープはカボチャとカレーでできているようだが、僕はしかたなく食べるといっ感じで、食べられないということはなかった。その後アイスクリームがでた。これだかあれば十分である。
夫は72歳で11歳も違いだが家庭のきりもりは彼女がすべてしているから、家庭の主役は自分であるという。息子が父の会社をうまく継続してくれるかが今の一番の関心事だといっている。
一緒に写真も撮って仲良くなったからメールで明日でも写真を送ることにした。
彼女が降りたあとにはカルカッタの政府の役人という夫妻がん乗ってきた。この人は大柄でなんか素暴よくなく自分のコートを窓につるして窓を塞いでしまったり、おおきないびきをかいたりして、ろくに挨拶もかえしてくれなかったりで、あまり感じがよくない。
寝台車で個室だから安心して寝られる。まあ悪い人ではなさそうだから安心して寝られそう。

インド史をとびとびに読む冬の月  下調べなく来た旅だから夜汽車でインドの歴史を読む
[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-31 23:08 | 旅行 | Comments(0)

今日の一句

インド史をとびとびに読む冬の旅

にわかのインドの旅でその地にきてインドの歴史を読む

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-28 21:50 | 旅行 | Comments(0)

インドの旅(6)

インドの旅2011年1月27日(6)ニューデリーからボンベイへ寝台列車
10時にチェックアウト時間に扉をたたくから慌てて荷物の整理してホテルの旅行会社に降りたら、「そんなに早く起きなくてもいいのに」というからボーイにそのことを伝えてなかったようだ。5時の列車だから相当時間があって手持ち無沙汰だからパソコン店に行って家や友人への通信についやしたがまだ時間があまる。
家には「毎日電話メールを試みるのだが送信できませんでした、と表示が出るからこのパソコンメールで今日までの様子は見てください」と送信しておいた。
福島氏から「カースト制度などはやはり現地に行かねば理解しにくかったですね」とあった。
昼食をとるための中央駅でレストランに行ったがランチを食べている人が4種類ぐらいおかずを手で食べているし、レストランといっても埃だらけで、掃事してあるようには見えないのである。食べる気になれず、引き返しホテルで頼むことにした。
待っている間にホテルの玄関の外にでたら、ここのボーイがいて、リヤカーで果物を売っているのの葡萄を買っていた、そして僕にも買えと勧めてくれたから適当に買ったら、自分の買っていた葡萄を僕の器に入れて、その分も僕に支払わせて自分のぶんだけ持ってさっさとホテルに入っていくのである。こんなことも少しの知り合いだったら平気で行われるので、あっけにとらわれてしまった。これも習慣なのだろうか。
中華料理をとってもらったが、これもインド流の中華料理で形だけは焼き飯のようだったがインド料理を食べているような感じあだ。
これだけの時間を使ってもまだ5時間も余裕があるから前の賑わいの中から人々の様子や表情を写真に納めることにした。男性の頭にまいた帽子の布などは映すのに協力してくれたし、女性のサリー姿も撮った。多分宗教によっての違いがここでは大きな違いなのかもしれない。
4時半頃ホテルのボーイが駅まで荷物を運んでくれたが、駅につくと、赤帽の様な荷物運搬人にバトンタッチしてくれ、ホームまで運んでくれた。この人たちは駅でのお客の運搬専用のカーストの人らしい。たくさんの赤い服をきてお客をまっている。
 1等車に乗ったら部屋の僕の隣が女性でなかなか上品だし、サングラスをかけ顔も白人のように白い、そして理知的である。インド人でもこんなに肌が白いひともあるものだと初めてみた。だからといってヨーロッパの顔だちではない。
息子さんが通路をはさんで窓際に席をとっている。この婦人は5時間ぐらいで降りるらしいが、声をかけたら愛想よく応じてくれた。主人はカバンの製造会社を経営していて、家にはサーバントが4人いる。そのうちの男性は料理人であとは家事全般をやってくれているらしい。日本にはこんな家庭は経営者でも少ないのではないかと思うが、賃金はほとんどなく食べるのと食事をさせればいいというのだから、ちょっと今の日本では考えられないことだ。僕の兄ぐらいの子供の時は家にもそんな人がいて、子守り専用の女中さんがいたらしいが、僕の時代にはもういなかったから、日本との70年ぐらいの開きまだあるようだ。
 5時に発車したらすぐボトルに水、次に紅茶がでた、その後で夕食がでて、チキンの炒め、スープ、菓子パン、ご飯である。スープはカボチャとカレーでできているようだが、僕はしかたなく食べるといっ感じで、食べられないということはなかった。その後アイスクリームがでた。これだかあれば十分である。
夫は72歳で11歳も違いだが家庭のきりもりは彼女がすべてしているから、家庭の主役は自分であるという。息子が父の会社をうまく継続してくれるかが今の一番の関心事だといっている。
一緒に写真も撮って仲良くなったからメールで明日でも写真を送ることにした。
彼女が降りたあとにはカルカッタの政府の役人という夫妻がん乗ってきた。この人は大柄でなんか素暴よくなく自分のコートを窓につるして窓を塞いでしまったり、おおきないびきをかいたりして、ろくに挨拶もかえしてくれなかったりで、あまり感じがよくない。
寝台車で個室だから安心して寝られる。まあ悪い人ではなさそうだから安心して寝られそう。

インド史をとびとびに読む冬の月  下調べなく来た旅だから夜汽車でインドの歴史を読む

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-28 21:46 | 旅行 | Comments(0)

インドの旅(4)(5)

インドの旅(4)2011年1月25日
ヒンヅー教徒とモスリン教徒は仲が悪いという。サンジェイ君の話によるとヒンヅーが大多数だが恋人にすることはお互いにないというのだ。だったらヒンヅーとモスリンの人とどうやって見分けるのか、住む地域は違うのか、など聞くと、住む地域も特別区分けしているわけではないという。小学、中学なども同じクラスというのだから、人間がそんなに宗教で対立するというのは僕には理解しにくいがそんな土地柄らしい。
外見で分かるのが、黒いサリーに目だけ出して肌といったら目の周辺と足だけが少し見えるだけらしい。そして黒ずくめのサリーである。それで僕にも分かってきた。
モスリンは一夫多妻らしい。2~3人の妻をもつらしい。そう言えば僕がケンブリッジに居た時の同じクラスにモーリタニヤの女性の地質学者がいたが彼女でさえ一夫多妻について当然とまではいわないが肯定的であったし、彼女も夫が他の女性を持つことに違和感を現さなかったのに驚いたことがある。彼女はイスラム教であったが宗教の教義で人間がこんなにも割り切る考えになることに宗教というのは凄い力を持つものだと思う。
230キロ離れたジャイプールにサンジェイ君との車だからこんな話もしながら走るから退屈しない。向かっているのはネパールの方向である。平野が続き車も少なく高速だが料金所で支払う料金は3回あったが30ルピーと40ルピーであるから60円から80円といったところだから日本と比べると10分の1ぐらいであろうか。それにしても、だから日本の高速料金の値段の高いのには異常さを覚えるものだ。
今日は高速だからあまり危険は感じなかったが市内に入るともう前の車との距離は30㌢ぐらいまでの接近した運転だからもう次からは車でなく列車やバスにしたいと思う。自分も心配だが家族が心配していることは避けなければならない。
 車だから体も疲れてきた。明日かニューデリーに帰るのにやはり300キロぐらい走るらしいから、26日はゆっくりホテルで休養し27日の午後からカルカッタに列車の寝台車を予約してもらった。2000キロぐらいあるらしいから疲れないように1等にしたら4200ルピーだから8400円になるがこれは安全のために必要だし、乗っている人に悪い人はいないからとのサンジェイ君の勧めである。携帯で会社に連絡してくれ車の中から予約もできた。
 高速の脇に猿よくいるし、農家の近くにも牛やヤギと一緒に猿がいて焚き火にあたっているのにもであえた。
牛は町なかでは商店街でものっそりと歩いているが、農村地帯では作業や荷車ひきに使われているが労働と崇拝と土地によっては使いわけられているらしい。
昨夜パソコン店でメールを開いたら岡山の土井先生からと俳句の会の淑子さんからメールがきていた。インドからの俳句を待っています、とあったし1月の例会には僕以外みんな出席していたらしい。僕も俳句詠むのを忘れているから読まねばなるまいと気付く。
途中でレストランにはいったら横須賀からという日本人の6人グループと合った。男性一人あとは女性だから女性が旅の主流になりつつあるようだ。僕と反対のアグラに向かっている。僕の一人旅に驚きブログを是非開いてみるとブログアドレスをひかえてくれた。
ジャイプールには1時半につきホテルでシャワーをあびてから市内の観光にでた。サンジェイ君が散髪するというので僕もつきあうことにしたら150ルピーというから300円である。やはり鬚を剃ってもらったらさっぱりし鏡の自分が大分若返って、血色もよくみえてきた。お世辞だろうがサンジェイ君が45歳ぐらいに見えると言ってくれたからまんざらでもない喜びだ。
ここでのメインは丘の上の宮殿で町を見下ろすところにあり中国万里の長城と同じように山の峰伝いに城壁で囲まれた街である。長さは11キロと言っていたから規模は小さいが支配者は同じようなことを考えるものだ。長城とくらべ壁の高さも幅も小さい。
宮殿に一人で歩いていたら凄い人だが北京大学大学院のロッシヤ文学と心理学の女子学生と一緒になり、見学も一緒にあるいた。二人とも博士課程に進み大学の教師になるらしい。彼女らとお互いの国の事情や風景の写真など交換することにした。
夕食を早く済ますためにレストランに連れてくれたが、サンジェイ君は一緒に食べるように勧めたが辞退している。会社のきまりなのか昨日もそうであった。今日昼に食事のときもそうだったが、食事代をくださいというから500ルピーしかなかったのでそれを渡したらその分であとで食べるということだ。
レストランは案内してもらわねばなかなか一人ではみつけられないくらいわからない。店はあるのだが屋台のようなのばかりでどうも衛生的にその気になれない。パンなども並べている店がないのだがおそらく路地浦ぐらいにあるのだろう。
食事を終えて隣のホテルにパソコンがあるのでそこで自分のパソコンで使用できたから送信が楽だった。
文学阪神の大和氏が僕の「76歳で思うこと」という僕の小文について興味があるからいちどそのことについて語りあいたいとのことである。
荷物の整理していたらスーツケースの底に置き忘れしたとばかり思っていたカメラが出てきた。これで午後からの写真が撮れるから助かった。だいたいこんなパターンが物忘れのいつもの結末である。

物売りの幼き素足黒光  車が渋滞すると幼い子供が物売りに来る素足で黒光している
夕暮れて猿も焚人の友となり 民家の近くには猿が多く共存しているようだ
よきことも忘れ物もあり冬の旅  毎日忘れ物も旅行の日課である  

 (5)インドの旅2011年1月26日(5)ジャイプルからニューデリーへ
ジャイプルはパキスタンと国境を接する街の首都であるらしい。昨夜隣のホテルで自分のパソコンが使えたので、日本でと同じように使用できたから幸いだった。メールも送れたし読むこともできた。インドは今までの訪問した国の中ではパソコンが一番便利に使える国である。だがどうゆう訳か携帯が送信できずにいる。「送信できませんでした」と出るから家への連絡はこのメール通信で知らせる外はない。
ホテルを7時30分にでた。ニューデリーまでは260キロの距離らしい。昨日見た城壁やパラスの方向へ向かうのだが、今日はインドの独立記念日ということで何か催があるのだろう、メインの道路が警官によって塞がれ裏道をえらばなければならない。
モスリン教徒の集落を通過したが教会の建物は違うのだが、人々はやはり汚れた服装にはかわりはない。椰子の葉でできている箒で道路をはいているがこれで黄砂が舞いあがりスモッグ状態になる。もう少し時間がたつと車が走り、勢いで砂を巻き上げることがわかった。
だから人間の活動の表れで黄砂になるのもあり、あながち自然現象でもないということだ。
インドの独立は1947年というがその独立の父といわれるガンジーは翌年に暗殺されているからやはりイギリスの権益が無くなる勢力の仕業であることは間違いないであろう。
戦前のニュース映画でガンジーの不服従という姿を小学の頃観た記憶があるが日本のアジヤ政策に反抗する人物として描かれていたように気憶している。そんな人とのかかわりのある日に、ちょうど訪れたのも今日は印象に残るであろう。
昨日みたパラスの門には祭日とあって人々でごったがえしている。そしてその山の上にある宮殿を像で案内するための像が20頭ぐらい着飾って客を乗せ、次々に宮殿へむかっている。像がこんなにもいるものかと驚くが、ここでは馬でなく観光の乗り物は像である。
このジャイプルの街は州都であると同時にパキスタンからデリーやネパールへの交易の拠点ということらしい。その国道に入ったとたん10とん車やコンテナー車がほとんどで、われわれの乗用車はポツポツとしかない。まして乗合の三輪タクシーなどは皆無である。パキスタンからの物品が相当運びこまれ、また出ていっているようだ。ネパールに行くにもインド人はパスポートが必要ないという間柄らしい。
農家の荷持つはラクダに引かせているラクダの作業を初めてみたが、牛より早く歩き、馬よりも荷物をたくさん引く力があるようだ。材木や土のような重たいものを運んでいる。これは足が平だから力がでそうであことも分かった。このラクダもインドの農村には非常に多くみることができた。
道には信号機はないが工事がたくさんされているため渋滞が30キロぐらい続く。渋滞が終わると、みな猛スピードをだすのだから砂埃がたちこめる。まだ車道の中心から外れたところは地道だからである。
大型トラックの間を抜けたり追い越す時はクラクションを連続で鳴らすのである。先の車が車線を変更すればたちまちにおしつぶされるような状況の運転だ。だがこれは相手に@対する追い越すための意思表示だから、日本のようにクラクションを鳴らされて怒る人はいない。
これも彼が高級カースト制度のドライバーだから任せとけと自信満々だがこちらにしたら命掛けの気持ちだ。
100キロぐらい走ったところで前のタイヤがパンクした。これはえらいことになったと心配したがサンジェイ君は慣れたものでさっさと10分ほどでタイヤ交換してしまった。
彼は32歳でこの地方の出身らしいが、妻子を残してニューデリーで働いているのだが将来の夢はあるのか、と聞いたら、いずれ帰って自分で農業関係の商売をしたいということから、事業を始まることについての僕の経験を話すと、非常に関心をしめし、いろいろ質問をしてきた。やはりこのままで家族と離れていつまでも働くわけにいかないからチャンスをまっているという。5歳と3歳の娘がいるそうだから会いたいだろうし。
「来週に帰るから娘に何か土産をください」。というそして僕が現地時間の時計と日本時間の時計を持っているのを見てそれを下さい。というのだからびっくりしてしまった。どうもそこら辺が彼の言動と自分の家族への愛情をごっちゃにしていて、これがやはり異文化かなと思う。
もうひとつあと少しでホテルに帰りつく前に車を止めて「私は貧乏だから家族に土産を持ってかえるのにチップをください」というのだ。僕も3日間案内してくれたのでいくらかのチップは考えていたし、500ルピーを渡したら、「これでは妻と子供の土産には足らない、あと500ルピーください」というのだ。僕にしたら食事代はその都度渡したし、おまけに昨日は小銭がなかったので500ルピーの紙幣をわたしたら、あとで返しますといったまま返してもらっていなかったから、それもチップで渡したと自分では思っていた。日本から持ってきた一番おおきな秋子が用意してくれた京都の名菓も彼の子供にと渡していたのだった。
だから僕にしたら少し僕の好意を傷つけられたような気になったが、彼は強鋼な姿勢である。だからあと500ルピーを渡すことで彼も了解したようだった。
だいたいチップというのは要求されて渡すものではないと思うからどうも最後にしては少々不快な思いになった。
チップをもらった後の彼はまた普通のように振舞って、独立したら経営の話を教えてもらいたいからメールアドレスを教えてください。というのだ。
国によって習慣が違うということは分かるが日本人は自分の心は言わなかっても相手に日頃の雰囲気で伝わるものだと思い、その伝わったと思うことの前提で相手に接するからどうも後味がわるい別れになるようだ。だけど彼は僕のそんな気持ちは通じないらしく
「、明日からのカルカッタへの旅行も私に案内させてください」というのだった。

 
[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-27 15:26 | 旅行 | Comments(0)

今日の一句

雲ひとつなけれど地上黄砂かな

ニュデリもアグラも黄砂ぼこりで空が見えないことばかりである

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-27 15:17 | 俳句 | Comments(0)

インドの旅(1)(2)(3)

2011年1月22日インドの旅(1)
昨夜荷物の整理は秋子に任せていたが、今日の出発時にカメラがみつからない。出発するためにスーツケースにロックしようとしたときそれに気付いたのだった。仕方がない薫のカメラを借ろうとしたら「いやや」という、おそらく写真の収納があるのだろう。そこで思いついたのが昨年秋子が買ってくれていた8ミリカメラを使用することにした。
昨年の中南米の旅ではビデオは使わなかったので、使い方から薫に聞くことから始めなければならない。
9時30分にタクシーに来てもらった。秋子、薫も関空まで見送りにきてくれるらしい。もう慣れているからと辞退したのだが、「ちゃんとゲートに入るまで見届けしなければ安心できない」と信用してもらえないのは、日頃忘れ物の常習になっているからである。こんなことでも、いろいろ用意してくれるから甘んじて好意として受けねばならない。
僕を空港に送った後大阪の久美子さんのブチックに寄って帰るのも楽しみにいれているらしい。
 タクシーでJR西宮に着いて荷物を見たら僕のリックが積まれていないではないか。ドライバーがスーツケースと一緒に積んでくれるものと任せたつもりでいたのである。
慌てた。確かにタクシーまでは僕が持ってきたのだが、城戸さんの倉庫の前に置いたまま積まれていない。僕だけ同じタクシーで引き返すことにした。9時57分にリムジンバスが来るのだが、これにはもう乗り遅れであろう。であれば次のバスで関空に着きインド行き1時15分の2時間前まで間に合うだろうか?これが心配だ。
幸いに僕のリックはそのまま道にあった。日本だから心配はしていなかったが、リックの中にはインドまでの往復チケット、パソコン、それに読むための本が入っている。もし紛失していればこの旅行は中止せざるを得ないところだった。
日本という国はありがたい国であることを改めて感謝したい気持ちになった。
引き返して駅の近くまで来たらもうリムジンの時間がきてしまった。トッサに次の停車場の阪神西宮にこのタクシーで行けば間に合うかもしれないが、秋子の携帯電話の番号を知らない、だから絶望だ。と思っていたら、僕の携帯に「電話ですよ」とドライバーが言った。このドライバーは「電話が解れば私の携帯で連絡できますよ」と言ってくれていたのだが。
秋子からの電話だ。これの返信であれば交信できる。急いで返信してみた。すると丁度リムジンバスが来たところだという。「僕は次のバス停までこのまま先に行くから、荷物を持ってそのバスに乗ってくれ」と伝え、なんとか本来のバスに乗ることができた。こんな奇跡のようなことがおき、そして予定した通りの時間に関空に着くことができた。
 バスの中ではビデオカメラの使い方を薫からの特訓である。
朝食は早めに関空で手続をして皆ですることになっていたから、ハプニングがあったからその時間も気になったがインド航空の乗客が案外少なかったので早く搭乗手続ができたので食べる時間がとれた。
インド航空の席は7割ぐらいが空席で、僕は通路側の席をとっているからゆったりしている。香港まで4時間ぐらいで着いた。団体で19人という大阪住吉ロータリークラブの人がインドのハイテクの勉強にと言っていたから、インドはその技術が注目されて、日本が中国と共に次の国として注目していることがあかる。
香港では給油の時間と新しく乗客を乗せるのだが、降りる人が半分ぐらいの後にインド人がほぼ満席になるまで乗り込んできた。隣の席にはインド人の青年が来た。中国各地にハイテクを売りこみにきて帰国するところだという。僕にペンを貸してくれと言って親しく話かけてくれる。自分の父は65歳だがあなたのような元気はない、といっている。
11月に全国文学研究集会の講師だった横田昌則氏の「頭上のアンテナ」をもういちど読みなおしってみた。障害者福祉施設の動きの人間模様であるが、人間の集団での人間関係は日本の現在の環境ではどこでも社会の組織についていけない人々がいて、その悩みをしんけんに聞いてくれる人がいないし、何か事がおきてから、そういえば思い当たることがあるな、とあとで気付くことになることが多い。その時はもう遅いことばかりである。
 ニューデリーへは香港発19時15分ニューデリー着23日1時15分だったから
日本を発ってちょうど12時間かかったことになる。
 空港ではでホテルへ送るための出迎えタクシーが待っているということだったので大分探すのだが僕の名前を小さく会社の名前を大きくカタカナで書いてあるから何回その前を往復したのだが、それに気ずかずにいて30分も待っていた。僕の電話のバッテリーが切れていて、ホテルに電話することができなかったから、日本人の現地にいる人が見つかったので相談したら、自分の電話でホテルに電話してくれた。すると6番ゲートに迎えに出ているとのことだ。その日本人が一緒に探してくれたら、僕が何回も通り過ぎてちゃんと顔も知っているホテルの人がいてくれたのである。やはり自分が解釈して僕の名前だけ探してホテルの名前が大きく掲げてあるから、そこまで頭が働かないのであった。
これでだいぶ時間をとってしまい、家では心配してるだろうなと思いながらもホテルに行かねば携帯の充電ができないから気になってはいたものの、家への連絡をつけられないままになった。
空港で10万円両替したら、なんと500リラ紙幣が98枚にも0なった。厚さにしたら1㌢ぐらいだから日本の1万円札の100万ぐらい厚さである。これでは財布に入らないから500リラ10枚財布にいれて後は別にしまっておいた。えらい金持ちになった気分である。
迎えのドライバーは通常はヒンズー語を使うらしいから、英語の発音がなかなかききにくいが、なんとか会話はできる。牛肉は食べないが牛乳は飲むらしい。また彼はアルコールも飲まないというからなるほど我々の文化との違いを直接知ることになる始まりだ。あたり一面スモッグのようだが砂埃らしい。タクシーで三輪車かなり多いし、自転車でもタクシーとして大分みかけられる。中国の上海や蘇州よりもまだみたところ遅れているようだ。
ホテルまでは20分ほどの距離だった。深夜だがかなり人も動いていて、ホテルは相当人混みの中にあるようで、安いだけあって外観は奇麗でない。深夜だから不満そうな応対とヒンズー語だからあまり聞きとれない。
部屋はダブルベッドでまあまあだが眠くてたまらない日本時間で23日の4時半になっている。


インドの旅2011年1月23日 (2)ニューデリー市内観光
目覚めたのが10時過ぎていた。昨夜携帯の充電をしていたから一番に家に電話を入れたら、ニューデリーに着いた知らせがなかったから深夜まで待っていたらしい。
 寝る時は感じなかったが、やはり朝がたになったら冷えてきたからもう一枚毛布をかけてひと眠りしたのだった。昼と夜との温度差があることに気付く。
ホテル内に観光案内があるから今からの観光について相談したら、今日の市内観光バスは9時に出たのでもう明日しかないからホテルの契約している個人案内しかないというから頼むことにした。
朝食を案内するというからすぐ近くの繁華街にでたがどうも日本の終戦直後の大阪の駅近くの屋台のような感じでその店で食べる気になれないほど汚い、屋台の感じだったから、ホテルに配達してもらうことにした。このホテルは首都の駅前なのにまだ大阪の新世界のような雰囲気で賑やかではあるが埃っぽい。
オムライスにミルク、ジュースにした。オムライスというがライスは焼き飯でそれをパスタというのを別の皿に延ばして平らにしてあるからご飯をこれに包んで食べるらしい。
味はあまりないが、アラブの料理でもこんな食べ方でイギリスで食べたことがあった。
朝食の後にホテルが手配した専属のドライバーが市内の名所を案内してくれることになり、4700ルピー(9400円)支払った。サンデイ君は32歳青年である。市内を走るとスモッグかと思えるのがたちこめていてどんよりとしている。これは中国の黄砂のもっと濃い感じである。これは砂なのだが相当粒子がこまかくなければ空中に浮かないのだからこの土地の土は日本と違うようだ。これでは洗濯しても綺麗にならなく全体がこの土色に染まるのではないか。人々の服も汚れているようで白のすっきりした服装など期待できそうにない。
今日案内してくれているのはメインの通や名所中心らしいが、道幅は広々と20mぐらいあり、緑の並木といいたいのだが、緑に鮮やかさがなく全て黄砂がかぶって美しいとは言えたものではない。雨でも降らないことにはこの木々も気の毒なぐらい本来の緑がかくされてしまっている。御堂筋ぐらいの道に並木がいっぱいで公園もたくさんあるのに。今日は日曜だから車は少ないといっていたし、黄砂では美しいという表現はでてこない。
表通りから浦に入るとレジデンスと表現しているが日本での表現の響きは高級住宅という印象だがここでは反対に日本のスラムという呼び名に近い。洗濯干しも建物につるされているが、洗濯しても綺麗になるのだろうかと思うぐらい黄砂のなかだし、路地はゴミを掃除してあるとは思えないぐらいだ。コンクリートの建物があるかと思えばトタン屋根があったり、解体途中のがれきになったりしたのや道路工事の土の山々があったりで、きたなさが普通といったレジデンスである。表通りと極端な都市計画の差が現状である。
サンデイ君はここから600キロも離れた村に奥さんと子供3人おいて働きにきているという。言語は7つを使えるらしいが、我々が言葉というときには「7カ国語」というのだがここインドでは同じ国でありながら7つの言語が使われているのだ。
先日井上ひさしさんがNHKで「標準語について」の番組で日本でも明治維新では沢山の言葉があり新政府では薩摩、高地、江戸、山口、江戸などの言葉が入り乱れ、政府の通達などでも解釈が様々で大変混乱していて、一番こまったのが戦争の時の命令指示で一番困ったので言葉統一を急がねばならない必要にせまられたというのだ。
サンデイ君もインド国内の人々を案内するのに必要にせまられてたくさんの言葉を使うようになったのだという。
イギリスが1870年代にデリーを首都にしたのはあらいる帝国を世界の資本主義の発達でたまたま産業技術の格差の武力によってインド帝国を支配して首都にしてから都市計画をしたようだ。だから行政機関の場所と被支配地区との地域的な格差は続いているのである。
サンデイ君の奥さんも顔の額の上に赤い丸の印をつけているが、あれはヒンズー教徒の印で結婚している婦人がやるらしい。男性は頭に布で帽子をつくり巻いているがその長さは3mぐらいもあるという。彼も時々捲くといっている。
インドの首相はネール前首相の孫娘ではなかったこと思うがこんな大国で女性の首相は不思議に思うがやはりネールの権威がカリスマ的に残っているのだろうか。国民会議派として投票で選ばれているのだが、街には素足で路上での生活者がいっぱいいるのだがこんな人々も投票にいくのだろうか。そしてそんな人々が選んだ政府なのである。
街の商店街に活気がある。これも終戦直後の日本と同じである。日本には商店街と言われる街は無くなったのではないかとさえ気付かされた。見た目にはきたなくて、貧しいいように見えるのだが、エネルギーを感じるのである。世界のハイテク技術の先頭にある国が見た目の国民の貧しさと共存しているというのはどうゆう訳なのだろうか。
街を歩いていると牛が2頭ほど人並にゆっくり歩いている。そして雑貨屋を覗くのである。するとそこの主人がトウモロコシを手のひらいっぱい両手で持ってきて牛に与えるのである。牛が食べていると通りがかりの若い男性が食パンをちぎって2枚ほどその食べている牛に追加して食べさせた。牛に対するここの人々の気持ちがわかる。おそらく牛は神の使いなのだろう。サンデイ君に日本では豚も牛と同じように化知久家畜なのだが豚は何故食べるのか?と聞いたが「あれは美味しくて好きだ」と言うけれども僕の疑問には答えられていない。
人込みがすごいのに身の危険を感じないのは何故だろう。日本人とみたらやはり物売りは近寄ってはくるがあまりしつこくない。車で信号待ちしていると小学生で家のちえちゃんきあらちゃんぐらいの少女が車の前で宙返りを3回して見せた、そしてドワーに近ずいてきてお金乞いをしたから日本から持ってきた「のれん」をプレゼントしてやった。
僕としては婦人のサリー姿は珍しいので写真を撮っていいか?と聞いても拒否する婦人はいなくて、高齢者などは好意的に写させてもくれる。ヨーロッパでサリーの婦人の応対とは明かに違うのは、やはりサリー姿が日常だからであるからだろうか。
バハーイー寺院というシドニーのオペラ会館のような建物に行ったら沢山の参拝者が続いているが、小学生、中学生が制服のサリーを着ているのだがみんな裸足で行列して歩いている。そんな教育なのだろうかと思っていて、僕も参拝しようと並んだらいりぐちの100mぐらい前に履き物の脱ぎ場がある。だから生徒たちは学校からでるときもう脱いできたことがわかった。
足を見ていたら若い女性が爪にいろいろのデザインしたクマニキュアで飾っている。ここでは素足を見せることが多いから手の指と同じように足指も化粧の大事な場所なのである。
このバハーイー寺院は規模にしたらおそらく甲子園球場の100倍はあるであろう。この寺院はイスラム教系の人類平和、科学と宗教の調和でカースト制度の別なく祈りができるというので、カースト制度から逃れるこころの解放を求めるひとびとに広く信者を集めているという。カースト制度があったからの広まりであるようだ。本来宗教は神の前では平等とするのが理念であるが、権力と結びつくことで権力と同じような制度を護るや役目に堕落しがちになり、その本来の宗教の原理にたちかえろうとする宗派が生まれるもので、その典型でこの繁栄であろう。日本の○○学会などと似たようなものであろうか。
各種の寺院があるが、これにはイスラム寺院の共通のドームの屋根が多いがこれは13世紀にイスラム勢力が侵入し奴隷王国をたてインドの奴隷たちに建築技術を教え寺院を作らせたことのなごりで技術だけが建物に残り中身はヒンズー教だったりするそうである。
寺院の中に入ってみると祭壇が無いのはその名残であろうか。僕もエジプトやトルコの寺院の中にはいったことがあるが、日本の寺やキリスト教の祭壇のように偶像を祭壇にしていない。


インドの旅 2011年1月24日(3)アーグラーへ
サンジェイ君が8時に車で迎えにきた。6時に目覚めて日記を書いていたら7時40分になってモニングコールで始めてそんな時間になっていることに気付く。
慌てて出発の準備にとりかかるのだが、どうしても歯ブラシがみつからない。今日は歯磨きなしだ。
2日間の旅行だが荷物は全部持つことにした。何がいるかわからないしサンジェイ君の車で彼と一緒に移動するから、邪魔にならないと思う。
 外は昨夜出てみたらゴミでいっぱいだった商店街を各々の店の前を箒で掃除している。それはそうだろう、昨夜はゴミ捨て場のように道路いっぱいのゴミでこれでは外来者でなくても明るくなったらたまらないだろう。インドの首都でしかも中央駅前商店街で、僕も第一印象で不快感をもったものである。朝の商店街が見違えるようにきれいになっている。メインの公道は一斉に箒で延々と掃除人が並んで掃除している。この公道は役所からの費用での作業らしい。公道はゴミというよりも黄砂が積もるからこれは毎日欠かせないことだろう。だが大阪のように清掃車はまだ導入されていないのは技術の問題と労働の価格が安いことによるのだろう。
朝の爽やかであるべきなのに黄砂スモッグでどんよりとして太陽も霞んでいる。これは上海と同じである。
今日はニューデリーから200キロの道を車で走るのだが、今はラッシュ時間のためメイン道路であるためか渋滞だ。車はバス、三輪タクシー、自転車三輪タクシー、それにトラックでの相乗り、バスが通勤に使われていて、自転車や一般のタクシーはすくない。タクシーではこの渋滞で料金がいくらかかるか採算があわないであろうから。
一番多く使われているのは三輪タクシーである。運転手の隣にも乗るので四人乗るのが普通で後ろの座席が二列あり、外に腰掛けがあって外を向いて乗っている人がいるから後ろの席が三列使えるという勘定になる。合計すれば最大四列の乗車人数となるから16人が乗っているのが普通といえる。日本だと今は無い三輪車だがせいぜい三~四人が基準だがその四倍乗っている。行く先が決まっているわけでなく、途中で乗り降りし料金もドライバーに小銭を支払っている。このドライバーに限らずどんな隙間もくねくね抜けて走るからバスよりも早いのは確かだし利用価値が高いと思う。
この通勤時間に若い女性が殆ど乗っていないから聞くとインドでは工場での労働にはまだ少ないとのことである。
バスも走っているが車内は満席で外に梯子がついていて屋上にも乗せている。急ブレーキでもかけられたら落ちないのだろうか。そして怪我でもしたらその保障はあるとは思えないような大雑把な乗車管理である。ここでは怪我は自分持ちだろうか。昔日本の大工などの職人の「ケガと弁当は自分持ち」という言葉で職人の弟子を教育していたことがあったが、ここではまだそれに似た習慣があるかもしれない。
この渋滞が毎日30キロ続くそうである。それなのに信号がない。だから運転の達者な人はどんどん隙間を抜かして走るから、日本人が免許を持ってきても運転できる状態ではない。サンジェイ君に聞くと自分はカースト制度の上級ドライバーだという。だから外国の人を乗せる許可を制度としてもらっているとのことだ。運転の初心者はインド人しか乗せてはいけないというのだ、だから安心してくださいという。カースト制度は人間を差別する制度だから僕は恐る恐るこの制度を聞いたのだが、彼はバラモン、クシャトリヤ、バイシャー、スユドラーの中のバイシャーに分類されているという。僕も高校の世界史の時にこの制度は習って覚えていたが、バラモンは宗教者、クシャトリヤは貴族、武士、バイシャーは庶民、シュドラーは奴隷との身分制度と聞いていたがバイシャには2千種類ぐらいの種別があるらしい。サンジェイ君は運転手の中の上級のクラスらしい。バィシャーの中では熟練を重ねることによって移動することができるようだ。
憲法上ではカースト制度は廃止されたが、職業の技術として残っているようだ。僕がエベレスト登山した時日本のパーチー9人に23人のポーターがついてくれたが先導者と料理係、荷物運搬係というのが最後までその職責に従ってサポートしてくれたが他の職種に応援を一切しないのを見てカースト制度だから、と言われたことを体験しているからまだ残っているのだなと体験したことがあった。
200キロの道中の30キロという渋滞は工場地帯でそこに働く人たちだから大方通勤時間でなくても企業が24時間の交代制でやっているからここは混むらしい。工場の大部分ハイテク関連だし日本の自動車工場や電気、事務機などの工場にも勤めているらしい。
三輪タクシー(リクシャー)に乗る人の足を見ていると靴下ははいていないからいやでも足が目につくのだが、殆どの人が足が汚れている。どうも風呂に入っているようにはみえない。日本ではもう乞食の足でしかみれないような足の汚れである。いったい家庭での生活はどんなんだろう。床と外との区別があるのだろうか?仮に部屋の床と外の道との同じと仮定してもベッドに入るのにこの汚れはどうなるのだろうか?そんなことが気になる。
いずれにしてもこれらが改善されるのは時間の問題である。働く人たちが賃金を得て、労働組合が組織され賃金が上昇していくのは必然であろうから、家庭の環境も変わるはずだ。
僕のホテルの旅行案内人が自分は共産党員であると公然と言っていて、そのようなことを言って解説してくれていた。
途中で食事に入ったがサンジェイ君はレストランに一緒には入ろうとしなくて、自分の食事分の金100ルピーをくれという。外で食べるらしい。僕にはレストランを案内してくれただけで、そこにはインド人と見えるお客は入っていなかった。
僕は看板にでていた写真でのハイシライスのようなのを注文したら、ライスとパスタは別々に持ってきた。これにビールである。あまりビールは飲まないように家で注意されていたが、空気が乾燥して埃も凄いのでビールは心棒できなかった。体調もそんなに気にならないでいる。出発の前日180と115あった血圧だが今朝はよく寝たせいか気にならない。
この車での移動だが旅行社が勧めるままに選んだが、一度は町の中を観ながらもいいだろうとこれにしたが、目的地に行くには列車が楽かもしれない。でも庶民の農村をみるのもよかった。牛、ヤギ、鶏などと共存していて、大通りの裏側をみながら走る。この浦側のことをレジデンスと呼ぶが日本ではレジデンスとは文字どうり高級な豪邸というのだが、どうも全く反対の使われかただから、おかしく笑いたくなった。
 1時半ごろガンジス川の見える畔についた。ガンジス文明は栄えて世界の文明の源流ではあるが、どうも濁りがきつくて川の美観としては期待はずれである。ネパールでのガンジス川も印象がよくなかったのは川の畔で火葬しそのまま水に流していたからどうも不潔な印象である。同じ文化をもっているから僕には川の美しさを期待するからいただけない。
もっともほんの一部だけしか見ていないから全体でこんな汚いはずはなかろう。
 アーグラーに着いたのは1時半ぐらい。最初にホテルで僕の部屋に案内するのに係が大きな声で怒鳴り、棒きれを持って2階のベランダに出るから、なんだろうと外を見たら猿が数匹いるのだ。これがお客さんに飢餓をくわえたり物を盗るかもしれないからだという。頭上の屋根をみるとガラスの上に数匹が写っている。このホテルは街の中にあるのだがこんな猿が多いということはエサが犬や牛に与えられているからそのおこぼれをもらうためだろう。
そんな中の僕の部屋である。
アーグラーではタージ・マハルという世界で最も美しい寺院として有名で世界からの観光客が絶えないという。これを案内するためにムーンという青年が案内にあたってくれた。日本語ができるといっていたが片言で役にたたないからやはり英語にしてくれと頼んだ。
寺院の美しさは白の大理石で全てができていて、屋根がドームになりそれが庭園に真っすぐつくられた池に映えるのはうつくしい。大理石に色のついた花や動物の絵がまた大理石で埋めこまれている。500年ぐらい前がここはインドの首都であったときのものである。どこからこんな広大な大理石を運んできたのだろう。イスラム文化だからやはり祭壇はない。おそらくメッカの方を拝めばいいのであろうからであろう。
20万人の人々でつくられたというから宗教と権力が一体でつくったのである。
インターネットカフェに行ったら日本語ができる店だったので助かった。そこに北海道大学を卒業して新聞社に入社が決まったシンタロウ君がきた。彼と少し話ていると、彼は自分の期待した新聞社ではなかったらしいから、ジャーナリズムの使命は権力を批判的にみて国民の側にたつことで生まれた言論だが、今のメヂアは権力の機関に入りこんでしまって、当局の発表することの報道になってしまっているから、そのようにならない自分になってほしいと注文したら、全く同感だから今後また意見をきかせてもらってもいいですか。と初めて訊いた話でとても勉強になった。と早速僕にメールを書くとアドレスを打ちこんでいた。
こんな青年と外国で話すことも楽しみの一つである。

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-26 00:00 | 旅行 | Comments(0)

70歳の留学(7)ブライトンへ小旅行

2005年7月16日(土)Brighton旅行(7)
たしか土日は食事は無かったのではないかと娘が言っていたようだったので、自分でする積りだった。すると、8時ごろメキシコと中国、ロシヤの生徒が食事していた。僕はもう出る予定だったので、食事せずに家を出た。
どこに遊びに行こうかと今の今まで考えていなかったが、子供達が留学していたBrightionは第一に行ってみたいところとして浮かんだ。一度行ったが雨と風で、海岸が有名だが良い印象ではなかったし、子供の下宿先もそんなに記憶にない。もう20年も前のことだから。
サンドイッチとフルーツセット、水を買い、Brightionまでの往復で70フラン、14000円相当だと思う。片道2時間の7000円であれば日本より大分高いような気がする。
9時20分にケンブリッジ発ノンストップロンドン行きだった。日本人女性がいたので話しかけたら、徳島大学の4年生で、9ヶ月いるつもりで、今1ヶ月過ぎたところらしい。母を迎えにヒースローへ行くところだという。彼女はパソコンを使っているというから、使い方は留学の会社の案内で僕がもらった説明書のとおりやれば出来るとのことだ。早速学校でやってみなければならない。それにしても9ヶ月いるということは、もう単位をとりきったのだろうか。「お母さんは遊びですか」と聞いたら、仕事半分です。というから、お母さんもなかなかの人のようだ。
ロンドンに着いた。乗り換えで外に出たところに、すぐ外に生花が一杯積まれている。ここはあの7月7日地下鉄爆破された人たちへの見舞いの花だ。丁度尼崎事故の時供花されていたあの風景だ。そこに40センチ角ぐらいの日の丸の旗に寄せ書きしたのが2mぐらいの高さに掲げられている。その前で敬礼している人で一目で日本人だと分かる。不動の姿勢だ。背に日の丸を縫いつけている。少々異様で右翼のスタイルである。「日本から来たのですか?」と聞いたら3日前に着いたという。埼玉S市の消防士だという。歳は50歳を少々すぎた感じだ。日の丸の旗にも、自分の背にもイニシャルが書いてある。熱心な慰問者である。だがイギリスの人たちは彼に無関心であった。僕の目の前で2~3回敬礼してアピールしていたが、誰も彼に話しかけない。だからパフォーマンスのようだ。
彼の敬礼と花束の山を一緒にカメラに収めたら、彼のカメラで自分を違った角度で2枚撮ってくれとのこと、接写と全体を撮ってやった。
僕は急いでいたので、それ以上話することはせず、次のブライトンへの駅に向かった。国鉄といっても同じ構内から乗り換えるのではなく、3分ほど歩かねばならない。地下から暫らくして地上にでると、ロンドンブリッジらしいのが遠くに見えてきた。「Welcame to the Brirgg」と看板が出ていたから、そうである。いよいよ娘たちが何回も乗ったであろう景色も共有できて感慨ふかい。
ロンドンとケンブリッジとは少々風景が違い、こちらは工場地帯が続くので、ケンブリッジの方がイギリスという僕のイメージにあっている。
50分ぐらいでブライトンに着いた。駅は鉄骨の高い屋根でドームになっている。高い屋根で20mぐらいもある。そこに数本のホームがある。娘からお送られてきた写真もここだったから懐かしい。娘からのメールで、「見物するのだったら、チャーチルスクエアービーチがいいよ」とあった。そこを聞くとまっすぐ行って、右の賑やかな通りがその名前らしい。人混みで、若者が多い。僕は店はあまり興味はないが、日本の若者はここでイギリスらしい何かを発見するのだろう。大きな時計台を右に曲がった通りだ。4ブロックぐらい歩いて左に曲がり坂を下りていくと、海が見えてきた。ここがビーチであろう。坂の途中に中華レストランがあったので入った。盛り付けの海老と、オニオンを中華風に炒めたライスだ、5フランと書いてあるのとビールを注文したら、イギリスと中国のがある。中国製にしたら、まあーまあー美味しい。冷たいからいい。料理は大変美味しい。米は細長くて、カリフォルニヤ米だろうか。ねばり気がなく、うまくない。だから、「もしこの米を日本から輸入して中国料理とセットでだしたら繁盛するだろうに」と言ったら、「may be 」 と言っていたが、「日本米は高いだろう?」と言うから、「今日本では過剰だから、輸入する気があれば容易だし、易いよ」と言ってやった。
勘定書きを見たらT30と見たから、数字を読み違えて、違うのではないか、と言ったら、丁寧に「食事が5、ビールが2,3」と説明してくれた。手書きだから読みにくい。僕の錯覚であった。
ひとつひとつこちらの生活のやり方も覚えられるが、違った習慣で最初は誤解するので、なるだけ聞いて解るまでの努力をしなければなるまい。
海岸にでたら海に突堤が壊れているのは息子がいた時の20年前での見覚えがある。100mぐらい沖に設置されていたのが、火災で鉄骨だけになっている。おそらく遊技場かレストランだつたかもしれない。
焼け落ちた感じだ。当時の写真が展示してある。あの時は曇りで海も荒れていて、あまり良い印象ではなかったが、今日は若い人たちが、海水浴に来て、女性がビキニスライルでパンツだけになっていて上向きになって乳房も干しているのがかなりいる。だが平気で傍を通れる。だから写真も楽に撮れた。日本であればさしずめセクハラと言われかねないが、相手もそんな人ではないのだ。
ここは砂浜でなく、小さな丸い石ころの浜であり、よくもまあという、人工の浜ではないかと思えるぐらいに石の粒が揃っている。波打ち際まで砂がない。


担任の教師

b0150946_759398.jpg

下宿のロシヤ人ステファン君

b0150946_812894.jpg

下宿の中国人学生素衣君
b0150946_8112567.jpg

下宿の主人
b0150946_8192081.jpg

ホムステイ

b0150946_8215312.jpg

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-22 07:55 | 旅行 | Comments(0)

今日の一句

冬晴れや一分刻みの旅支度

37日間のインド旅行のため、病院に行ったり碁も打ったり分刻みのてんてこまい

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-22 07:49 | 俳句 | Comments(0)

今日の一句

家族とは社員とはありがたき冬の旅

家族と社員の理解で旅にでられる幸せをいつも感じて明日からインドの旅へ

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-21 08:46 | 俳句 | Comments(0)

70歳の留学(6)ケンブリッジ

(6)ケンブリッジ語学留学(6)2005年7月15日(金)小テスト
クラスメンバーの名前を覚えねばならないと全員の写真を一人ずつ撮る。そして名前を一人ずつ書いてもらった。職業を聞いたら、モーリタニヤの人で美人で好感のもてる人で、いつもNobutoshiバーイと言ってくれるのはモナリザのような人、地質学者だという。また黒人で一人だけサリーを着ていない、なかなかの可愛い美人がministery and oil と書いてくれたから、石油大臣である。すごい人達がきているものだ。だから念いりに記録しておかねば顔と名前が一致しないかもしれないなと思う。まだサインをしてもらっていない人が2人いる。いずれもモーリタニヤだ。毎日さりーを着替えてくる人ばかりである。「貴方がたはイスラム教ですか?」と聞いたら、「毎日5回メッカの方を向いてひれ伏して拝む」と言って、地質学者がやって見せてくれた。そしてラマダンの月は絶食するというから、それで仕事は出来るのか、と聞いたら、夜は食べてもいいらしい。だからうんとご馳走を夜にとるという。国中がそうだから、夜は賑やかだそうだ。
昼食のとき、外がすごい人だかりで、奥まった建物にたむろしているから、「これは何ですか?」と聞いたら、モスクの祈りだそうだ。ぞろぞろ入っているから、僕も一緒に入ってみた。細長いモスクでいっぱいイスラム教徒が絨毯の上に座っている。随分入っているが、細長い建物だから祭壇は見えないくらい奥らしい。みるところ2~300人はいるのではないこと思う。ところが、不思議なことに、女性が一人もいない。この宗教でモスクに来るのは男性ばかりなのだろうか。
入室したら頭を床のカーペットにすり当ててお参りする。それが終わってから胡坐をかいて座っている。何かマイクから祈りの言葉か、嘆きのような声が聞こえてくる。牧師さんのような声が説教のようにも聞こえてくる。僕には解らないがアメリカという言葉が聞こえるから、イラクなどでのイスラムがおかれているアメリカとの関係を話しているのだろうか。
僕が座っていると、後ろから手を触れる人がいる。振り向いたら家のヤセドである。彼は17歳だがモスクに来て祈りをしているのである。僕は途中で抜け出して教室に戻ったが、男性の生徒2人が戻っていない。20分ぐらい遅れて帰ってきた。おそらくモスクでお祈りをしていたのだろう。先生が少し怒っているようだ。それよりもかれらにとっては、祈りが大切らしい。先生もモスクに行っていたことを知っていたようで、「今日は許すが、こんなことが度々あってはいけない、みんな勉強しているのだから」と注意している。だがこんな注意が果たしてこの宗教の仕来りを改められるはずは無いと思うのだが。
それにしても女性が一人も来ていないし、サリーの着物もモスクには無かった、一度、家のヤセドに聞いてみなければならない。女性の知識人にも聞いてみようと思う。
モスクで座っていると水の滴がかかるのだが、入り口の方で、脇に並んで待っている人たちが、手を洗ってから、しかも、その手を拭かずに、どんどん入ってくる。だから皆、手が濡れたままだ。イスラムの仕来りだろうか。ところが、床のカーペットに落ちたら潔に思うのだが、これも清水ということになるのだろうか。カーペットは埃っぽくて、衛生的でないが、この人たちには気にならないのだろう。僕がエジプトに行ったときも同じようなことを経験したから、イスラムはどこも同じらしい。
中国の雀君鳴さんは午後の授業は受けずに帰ってしまう。僕にホームステイの費用は1週間いくら払っているか?と聞いていたが、僕は留学会社に一括して日本で払ったから分からないと答えておいた。彼女は息子と同居していて、自分で食事は作っているらしい。「土曜日に家に来て食事をしないか」と誘ってくれたが、僕はそこまで行動できる自信はない。こんなに友好的に僕を観てくれているのは嬉しいことだ。帰りに駅のスーパーに居たら彼女が肩をたたいたから、ビックリした。息子と一緒に買い物に来たというから、この近くに住んでいるのかもしれない。18歳の息子はえらい背の高い青年である。中国のお金で留学させるとは、この人は相当収入があるのだろう。日本人の20分の1という今の中国の収入だというから、ポンドにしても決して安くない。むしろ物価は高いようだから、中国人の収入にしたら、桁違いに一般の人と違う所得のであろうか。
竹下景子似の美人の息子にしたら、息子は少々いかつい顔だ。息子に「私はお母さんと同じ生徒だ」と行ったら彼が「私たちはクラスメイトと言う
べきだ」と訂正してくれた。なるほどそうだと思う。
学校が3時15分に終わりだから、コンピューター室に入ったら、日本語を打っている青年がいたので、話かけ、日本との交信の方法を教えてもらうように頼んだら、テキパキとyahooとの接続を教えてくれた。僕のホームページもなんなく出せたので、読者からの通信欄に投稿する形で送ったら、家でも見れるなと、早速打っておいた。いままでの様子、仕事のことなど書き込み、クリックしたが、文字化けしてうまく送れない。そんなことで、時間をとってしまい、うまく送信できたかどうか自信ないが、送信済みとはでていた。やはり日本人がいてくれてありがたい。
最初の青年は千葉大学大学院生2~3ヶ月ここに居るという。「だったら貴方は相当上のクラスでしょう」と言ったら「いやいや会話ができなくて、日本では駄目でしたから」ということだ。茂木さんというから、同じリーゼントスクールに居るから、コンピューターが解らなかったら、この人に教えてもらえるから、有難い。また他の女性の名前は聞き忘れたが、心強い知人ができた。
帰宅したら、すぐ夕食が出た、ロシヤ、中国、メキシコと4人で食べる。ソーセージ、野菜、ご飯だったが、美味しい。僕はウイスキーの水割りを毎日飲んでいるが、冷蔵庫には氷が無いということだった。ビールの代わりにこれで結構美味しく夕食ができている。メキシコの女性はもう明日ロンドンに行くというから、ほんの3日だけの滞在だった。次にルーマニヤ人が日曜に来ると言っていたが、来週になるらしい。「あなたはメキシコの生徒が帰ったら2階を使ってください、窓から外が見えるから」と奨めてくれた。僕の部屋は1階だが、すぐ庭に出れるから、ここでもいいのだが、引越しを手伝ってあげる、と言ってくれるが、何をどう手伝うのか、スーツケースだけだから、引越しのうちにはいらないと思うのだが。
今日も9時に床についた。体調を保つためだが、もうほとんど時差ボケは治ったしバスの帰宅も自信ができている。

クラスメイト

b0150946_0195057.jpg
b0150946_0201464.jpg
b0150946_0204119.jpg
b0150946_0211275.jpg

[PR]

by akinishi1122 | 2011-01-21 00:14 | 旅行 | Comments(0)