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中南米の旅

(47)2010年4月1日 ASNCIONからサンパウロへ
朝食に降りてパソコンを開いてみたら、土井先生、俳句の淑子さん、一ツ橋大学院の森君からメールが入っていた。
土井先生からは「ウルグアイの道路の話、電車の中での車掌さんのあり方など日本と違うことへの感想などとても勉強になります。ウルグアイラウンドで日本の農業や小売業などが疲弊していったことなど、もっと知らねばならないことですね。当時の橋本総理は岡山出身でした。」との返信だった。
俳句の淑子さんは 「旅日記次々お送りくださりありがとうございます。ウルグアイなどカタカナの国が続々と連なりますね。もうそちらは秋の始まりでしょうか?。今日は4月1日年度の始まりですね。ようやく桜も見頃になり、甲陽園線の窓から桜の眺めは毎年のことですが、飽きることのない美しさです。次回の句会は13日です。サンパウロから送られてきましたのを出句させていただきますね。先月の信敏さんの“メールでは言える労わり余寒かな”は全員が、優しい心があふれている。と感想が一致していました。ではご帰国までお元気で順調な旅をなさいますよう願っています。 淑子」 
一ツ橋大学法科大学院の森仁人君から
のぶさんへ 旅行記の送信ありがとうございます。コロンビヤからブラジルにいたる個所を読ませていただきました。オクスフォードで出会ったころと相も変わらず肉体も精神も若々しいままで、一期一会を大切する旅をなさっており、とても嬉しい旅行記として、描がかれる人々、風景や日常について、読んでいると何故か自然とオクスフォードでの、のぶさんと一緒にいた時間が頭に浮かんできます。またいろいろな場面で、その時々の表情を克明に思い出され、出会った人物の風態がなんとなく想像できるものですから、不思議なものですね。オクスフォードでの同時期に滞在した日本人の皆、私以外は就職して働いていますが、皆元気にしています。横川光君は化粧品会社で英語力を活かし多忙な日々を過ごしていますが、よく働きよく遊ぶ、を地でいっています。オクスフォードで居た時より溌剌としています。私はオクスフォード以後法曹界を目指し一ツ橋大學院で4月から三年目にはいります。司法試験が来年5月です。オクスフォード時代の友人と時々会えば、のぶさんの話がたびたびでます。「今ごろは地球のどのあたりを旅されてるのだろう」などとです。 森仁人
 夜の7時にパラグアイのASUNCION空港を出るので5時までにはつかねばならないが、その間は市内をバスで回ることにした。今日はキリストに関係する休日ということで、ほとんどの店がシャッターを下し閉まってる。だから町には人がいないし、バスに乗ってくる人がたいていポットを持ってそれに付随したコップがあり、そのコップにストルーが着いている。コップの中には日本のお茶の葉みたいなのがつまっている。このセットを持ちあるく人が多い。そのポットとコップはセットのデザインで外は革でデザインされているから、お洒落としての性格のものだろう。このようなセットのポットがちょっとした店にたくさん陳列してあるから、これは僕がみかけるだけでなく必需品に近いように感じる。あとで分かったのだが、空港の店番の娘さんが、このポットから水を注いで飲んでいるのを写真に撮ってもいいか?と了解をえたのでそこから、これは何なのか?と聞いたら「飲んでみる?」といって飲ませてくれた。コップは日本の家で飲む水ぐらいの大きさである。そこに茶の葉をきざんであふれるくらい入れてある。そこえストローの先がスプーンのように広がり、その開いた先に細かい穴が開いている。まあ茶越しの役目をしているわけだ。僕が飲ませてもらったのは氷り水が茶の味がする。だから茶を喉がかわいたらポットの冷たい水をそそぎこんで飲む、といって間違いなさそうだ。この携帯の茶が何故多いかといえば、僕なりに解釈すれば、やはり、この暑さだろうと思う。水なしでは外では過ごされない暑さからきた生活の知恵と理解して間違いなかろう。僕に飲むように売店の娘が勧めてくれたときは、一瞬とまどったが、彼女の好意を拒むことは相手にたいする礼儀に欠けるのではないか。また相手を傷つけるのではないか、彼女の飲んでいるストローに自分の口をつけて飲むことは何か病気でも感染しはしないか、その飲みものが麻薬のようなものだったら?はたまた相手の文化を軽蔑する行為ではないか。また僕の文化交流の精神からして自分の精神に反するのではないか。そんな思いが、彼女のすすめてくれた
ことに対する沢山の思いが錯綜した。人間の物事を判断し行動するまでほんの一瞬の間にいろいろな思惑がよぎるものだ。そして飲むことを選択したのだった。
その結果の、これは日本の茶と非常によく似た味だという体験的実感をえたのだった。
だから空港での売店の娘さんもこのお茶の味とともに記憶にのこる顔となった。
バスは郊外にいけば、まづ緑の中に平屋がぽとぽつとあり、庭の木陰にテーブルをだして家族で食事や飲み物を囲む普通の生活見えてくる。日本ではバスの中から食事を覗けるような風習は少ないのではないか。食事は他人に見られないで、まして家の中に類する庭の中をバスの中から覗かれるなんて、といった日本の文化がありはしないか。ところが、今日の郊外の家々では昼食を緑の木の下で楽しんでいる家のなんと多いことか、幸せそうなことか。
休日の休みかたで、のんびりハンモックで昼寝をしているのどかさ、などみるのは僕の心を豊にしてくれた。洗濯物が庭の木から木へ縄を渡された紐に肌着などどこでも干されている。
洗濯物がはためく暮らし、鶏の放し飼い、首輪の無い犬が鶏と共存、これもなんとのんびりすることか。都会のビルでの洗濯物の風景とは全く僕の心に違った安らぎをあたえてくれる。
こんな眺めを走りバスの終点では僕ひとりが降りた。バスを一人で貸し切りした気分。森の中にバスの終点と始発点になっている。森の中から空をみると真っ青の中に真白の入道雲が輝やいている。これを木陰から見ていると全然暑さがない爽やかだ。
次のバスがでるまでに近くにいたご婦人に話かけると、「どこまでいくつもりなの?」と英語で聞いてきた。空港まで行くと言ったら、「それは直接バスはここから出ていないから、うちの息子に空港まで単車でおくらせよう、いいですか?」と言ってくれた。僕にしたら、あと4時間も時間があるから、ぼちぼちバスを乗り継ぎして見物しながらでも、と思っていたのだが、この婦人が勧めてくれる単車で街を走る、しかも個人の親切を受けることを体験するのは、願ってもないことだ。一緒にいた若い息子に長男に聞いてくるように走らせた。すると間もなく「兄さんが送っていいと言っている」と呼びにきてくれた。
家に行ったら8歳ぐらいと4歳ぐらいの子供がいる家である。居間に入ると先ほどのお母さんとおぼしき婦人が大学の角坊を被って卒業写真が掲げてある。
なかなかのインテリのお母さんのような感じはしていたが、僕のような旅行者に機敏に親切な対応をしてくれた。世の中には親切な人が多いものだと、また旅の思い出に残る。
息子は僕にヘルメットを与え、自分は無帽で走りだした。バイクで走ると32℃という温度も全然かんじない爽やかである。20分ほどで空港に着いたから、都心はらだいぶ空港の近くまでは来ていたのではあろう。思ったより近くだった。
お礼に5万レアルを渡したが受け取ろうとしなかったが、無理にうけとってもらった。タクシーだと9万レアルとホテルで聞いていたからそれは受け取ってもらわねば、僕の気がすまない。彼はコンピューターのソフト開発の仕事をしているらしく、40歳ぐらいに見える。このように現地の人の親切は僕の旅の一番の狙いでもあるし、本の解説以上に僕にとってはあとあとまで印象に残るものである。アドレスも聞いたから写真もおくらねばならない。
空港では3時間も待つ早く着きすぎたが、これは親切から早く着いただけのことで、嬉しい誤算である。
空港でインデアンの婦人たちの手編みの手提げを編んでいたから、家の3人にと思い3つかって、その製作さやも写真に収めた。
まず少年が「靴を磨かせてくれ」と寄ってきた。そんな少年が20人ぐらいいる。小学4~5年ぐらいである。見ていると一心に磨いている。日本ではこんな少年が仕事をするのが禁止になっていると思う。児童福祉法があるからだ。ところがここでは国際空港で堂々と、しかも同じ服装だから政府公認の「靴磨き」である。
僕は最初一番小さい3年生ぐらいに小銭をプレゼントしてやった。だが考えてみると、恵んでやるというよりも、彼らには仕事に対する報酬として支払うのがやはり正しい配慮ではなかろうか、とまた例の少年を呼びとめて、靴を磨いてもらった。どうせこの国のコインは両替できなのだから、全て彼にわたしておいた。自分の孫と同じぐらいの少年の働きにたいする労わりと感謝の気持ちだった。
7時にASUNISION空港を発ち、サンパウロに着いたのが9時半だった。サンパウロにはホテルに荷物を置いているし、我が家に帰った気持ちになる。
ホテルでは、僕の顔を見るなり、前の部屋の鍵を渡してくれた。なんかもう日本に帰ったような気分になった。やはり2ツの国を旅行したのできんちょうしていたのだろうか。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:20 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(46)2010年3月31日首都アスンシオン市内バス
昨夜は10時すぎにホテルに入り、夕食は近くのレストランでしてシャワーが済んですぐ寝たから、あたりの様子は気付かないままだった。今朝8階の僕の部屋から外をみると、湖か川の中に島があり緑の島のなかに美しい別荘のような物が数戸ほどたっている。大変眺めが良いところだったことを知る。あとで知ったのだが、この島を眺める位置にここの大統領府があり、真白のホワイトハウスと言った感じだ。大統領官邸となるとどうやらアメリカのそれにならい、白で仕上げられて居るのが多い。考えられることは、国民に疑惑を持たれない純白の城としてれも考え浮かぶことだろう。
一日のバスでの観光を終えて、ホテルを確認できたから、河辺まで歩き、川沿いに歩いていたら、真白な建物があるし、河辺まできれいな芝生がひろがっていた。この白いお城のような建物を写真に撮るために気にはしていたが芝生に入って10mぐらい歩いたところで、笛の音がする。遠くを見ると、軍隊の服装をした兵隊が、大きく手を振り、「入ってはいけない」というらしい合図だ。なるほど広い芝生の真ん中あたりにヘリコプターの着陸できる表示がある。
その周辺をまわるように歩いたら、角かどに兵隊が自動小銃をもって警戒している。その兵士に聞いてみたら、なるほどプレジデント官邸だとわかった。フランスのエリゼー宮殿とまではいかないが、広大な敷地に品格のある建物である。
僕の部屋から直線にしたら500mぐらいの所にあるから、僕のホテルも中心地にあるようだ。
ここも観光バスハないというので、自分でバスで回るしかない。僕は全くASUNCIONというパラグアイの首都でありながら、知識がない。首都どころかパラグアイという国についても知らなかったのだから、無鉄砲としか言いようがなかろう。だから知らないことは、僕流にその国を知ることから始ればいいではないか、と決めた。
ホテルの前に来たバスに乗る。乗合バスでは庶民の生活がわからいい。昨日貨幣を両替したときウルグアイのお金の30倍くらいの数字だったから、インフレで、人々の生活は貧しいのではないか、まず想像したのだったが、乗ってくる人々の服装はウルグアイと殆どかわることない。むしろ市内部ではこちらが綺麗な身なりをしている感じだ。
面白いのは市の中心部のバス停ごとに、いろいろの物売りが乗ってきて、車内に声を掛けて、買う人があれば、その精算のために次のバス停までは乗るが、ずっと乗っているわけではない。だれも買わなければすぐ降りてしまう。ところが買う人が結構いるのにも驚いた。若い娘がパンを買い、婦人が冷たいジュースを買うといった具合だ。それが次々の違った品物を売る人が乗ってくるのに、バスの運転手はなんにも言わず黙認している。
ギターの流しがきて唄いだすとバスの運転手が今までかけていた音楽を切り。この流しの歌が聞けるように配慮までするのである。この車内に乗りこむことがこの国では許される文化なのだろう。そして車内でものを食べたり、飲んだりするのが許される社会であるようだ。売子もジュースの瓶の栓を抜いたら、コップを用意して、それに入れてやり、瓶はちゃんと持ちかえる礼儀をわきまえているから、相互に理解しあっているのである。
庶民の生活を理解するために僕が関心があるのは、墓地を見ることだ。墓地には人間の「死・生観」がわかるからで、墓地で下車してみた。
最初は寺院の境内かと思ったが教会らしいのがなく、墓地だけである。その墓地たるや、まるで独立した家屋といったような、2m×3mぐらいで高さ2mぐらいの建物が何千と建っている。誰もいないはずなのに鉄砲を持った警備員が巡回してきた。うす気味が悪くなって避けるように奥へ歩いてみた。何故墓に警備員なのかと不思議に思ったが、各々の墓はそれぞれ志向をこらして、キリストやマリヤ、十字架などが扉の前にそれぞれの彫刻や絵が配値されているし、窓があり中が見えるようになっている。ガラス窓である。その扉にはどこも必ず頑丈に鍵がかけられている。
中を覗いてみたら、やはりキリストの祭壇があり、その下に棺が並べられている。人間の等身代であるから、ここでは火葬はしてないようだ。だから各地にある国王などが埋葬されたときに入れられた棺のスタイルがそのまあまあここでは残っているといえる。それぞれの残された家族の想いや財政の許す範囲の棺だから、おそらく故人にゆかりのある大事なものが棺に収められているに違いない、これで先ほどの警備員が銃を持って警備しているのが理解できる。この墓が幾千とあるのだ。先日みたウルグアイの墓地は平原にただ人体の大きさの土盛りだったのとはえらい違いだ。同じキリスト教の国々でも死後の扱いがこれほど違うのかと驚いた。
各個人の家の中には子供の棺もあり先祖から続いているのもある。そして2階3階もあるところをみると、1880年代の年代がかかれている。また土地が手にはいらない人のためにマンション形式になって、高層化にもなっているが、棺の大きさはかわらなく部屋ばないだけで人体の大きさだけになりつつあるのは、時代のせいだろうか。
 バスの終点までいくと郊外であり、ぱらぱらと家があり、鶏が放し飼いになっていたり、乳牛が道をよこぎったりして、のどかだ。家々で洗濯物を干しているのを見るのはのどかでいい。
外の温度は32℃と表示されているが、木陰に入ると爽やかである。湿度がないから自分の選びかたで日陰だけを歩いたりすれば、楽しく汗をかかずに歩けるものだ。
パソコンデ日本の情勢をみると、鳩山政権も沖縄の普天間基地の移転問題で、政権公約の県外移転と公約していたのを、段々後退し一部移転などといいだしているから、地元沖縄の各市長あたりから、総反撃をうけ立ち往生している感じだ。だから世論調査でも支持率が5割を切ったようである。もともと民主党内にいろいろの考えがあるから、鳩山氏の立場はなかなか決断できないところだが、もたもたというのが鳩山氏の本当の姿なのだろう。首相なのだから、新時代に決断をしたらいいのだが、出来ないのが鳩山氏の限界なのだろう。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:18 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(45)2010年3月30日ウルグアイからパラグアイへ
2日ほど風邪ぎみだったが、今朝はもうましになったから、シャワーを浴びる。ホテルに居ても時間をもてあますから、バスで空港まで行くことにした。ホテルで近くからバスが出ているというから、出たところで、60歳ぐらいの婦人に空港行きのバス停を聞いたら、彼女の行く方向と反対に逆戻りして「私に着いてきなさい」といって、大分歩いて連れてくれた。この人は僕が全くスペイン語が解らないのに沢山喋ってくれ、僕はただあいずちをうつだけなのに喋り続けてくれた。なかなか親切なひとで、うれしいものだ。お礼に日本の扇子をプレゼントしようとしたが、そんな貰う筋合いはない、とでも言っているのだろう。だが最後にはうけとってくれ、抱いて頬ずりをしてくれた。
タクシーは来たとき、空港から780レアルだったのが、なんと27レアルだからやはりバスを覚えることで30分の1ぐらいで済むことになる。今日は時間があったから出来たことだが、どこでも余裕を持った旅行であれば安くて行けることもわかった。
空港で手持のウルグアイ、レアルをパラグアイの金に両替したら、なんお3653が860000となるではないか。僕がウルグアイで日本円をレアルに変えたのが3万だったが、少し使ったとしても、2万ぐらいが、86万となるのだから驚くばかりだ。パラグアイは極端なインフレなのかもしれない。
空港で6時間もまったが、昨日街をバスで縦横の終点まで乗り見物したから大体のようすで景色は観たつもりだったし、空港に5時までには着きたかったから、仕方がない待時間だった。空港に行けば誰か日本人あえるかもしれないという期待もあったのだが、とうとう日本人らしい人には会えなかった。この国はそんなに沢山の飛行機もでるわけではなく、1時間に1便ぐらいどこかに旅発っていたが、立派な空港の割には少ない便である。
南米の今までの空港ではダントツに良い近代的な洒落た空港である。
パラグアイへは29人しか乗客はなかったが、TAMという航空会社の係員が日本語ができて、ありがたい。だけどもたった29人の乗客とは国際線にしては少なすぎるのではなかろうか。
僕の隣の男性に機内のアンケートの書き方を聞いたことから、話がはずみ、彼がチリの出身で、サンチャゴ大学を出てから、フランスに留学し国際経済学を学びいまではサンチャゴの大学で国際経済を教えるエコノミストだと自己紹介してくれた。生まれがバルパライソという僕にとっては1昨年訪問して想い出に残る土地だけに、詩人ネルーダーの家を訪問したこと、40年前にアゼンデ大統領がピンチエット将軍のクーデターで殺されたことの僕の記憶などを話したら、「自分はその時代にはまだ生まれてはいなかったが、日本人であるあなたが私たちの国のことを覚えてくださって驚きだ、自分もネルーダや、アゼンデ大統領の業績について尊敬している」と話しがはずんだ。
現在では軍事独裁のピノチエット将軍を選挙で倒し、民主国家に40年ちかくぶりに復元したのだから、チリの国民の底力に感動していることも話しておいた。
「もうチリは大丈夫です」とも言っていた。たしかあの当時はピノチエット将軍がアメリカと経済界のトラック業界と組んで交通機関をマヒさせて民主政権を倒し、大統領府でアゼンデ大統領に辞任を要求したのを断固拒否したから、殺害したのであった。
これを国民的詩人のネルーダーもアゼンデ大統領をまもり、戦ったのだったが、軍部のちからに倒されてしまったのだった。僕は「こんなことが許されていいものか」と義憤していたから、あの40年前のことが鮮明に記憶に残っていたから、そんなことを話した。
彼とそんな歴史認識が共有できたので、楽しい飛行機の2時間だった。
彼の名前はGONZALOと言ったから、日本語で「言座朗」「ごんざろう」「ゴンザロウ」と書いてプレゼントしてやった。日本については「日の丸」と「海軍旗」を知っていたし、どうゆうわけで海軍旗などを覚えているのだろう。
名刺もくれ、そのうちに是非日本にも行きたいとのことだった。一緒の写真もとり送ることにした。
空港からホテルまでのタクシーを聞いたら、10万というだが米ドルだと20ドルというから、1800円ということになる。
9時50分についた。もうおそかったが、夕食がまだだったから、近くのレストランに行ったら、バイキングでビール大ともで3、6万だった。
ホテルはなかなき良いホテルで冷房も効いている。これはサンパウロの旅行会社で一括の支払をしたから、いくらのホテルかわからない。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:16 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(44)2010年3月29日 モンテビデオ市内観光
手帳を開いてみたら、たしかガット(WTO)の総会が1993年に開かれ、日本にとってはその後の経済にはかりしれない、被害をもたらした会議であったことを知らされた。というのはウルグアイラウンドで自由貿易を拡大するために各国の輸入制限をなくすることが合意された会議であった、ということだ。そこで日本は米の輸入を8%まですることを約束してしまったのだ。これは日本の自動車や家電、医療、大型店舗その他の輸出、輸入との交換条件であったようで、たしかに自動車やカメラなど日本の現在の花形産業は輸出で大きな利益をえ、世界産業へと発展したが、勘治の日本の農業や小売店舗を破壊してしまった原因を作った会議の場所だったところに来ていることになる。
いまから17年も前のここでの会議が日本の現在の外需に依存し。農業、林業、小売業を潰してしまい、国内の不景気の原因を作った場所であった忘れることのできない記念すべき場所であったのである。たしか当時は橋本首相ではなかったかと思うが、「大洪水よわがあとに来よ」といったフランス侯爵夫人の行ったことばがあの当時語られたが、まさに「あとはどうなっときゃーなろたい」というのがそのとき言われた通りに日本の経済はなっている。
帰国したら、その当時のことをも一度調べてみなければならな。
このモンテビデオの町は道路がみなコンクリートで舗装されているのに、掘削の傷跡が無いのはどうゆうことなのだろうか。大体日本では絶えず道路は掘り返されるもので、そのためには、アスファルトが柔らかくて便利だと思うのだが、掘り返す必要のない都市計画がなされているのだろう。
もう一つは商店に入ったらヘチマの皮が沢山売られていた。これは日本でも昔は風呂で体をこするのによく使われていたが、日本と共通してるのに面白いとおもった。
今日もバスで3路線に乗ってみた、ここは車掌がバスの中央に座り券を販売している、そして、老人や子供ずれの人に席を指示し、専用席に座っている人には立たせて優先座席はそれらの人のために、確保している。日本で電車でも表示はあるが、車掌がそこまでしているこたはないのだから、日本は形式だけ整えていればそれで済むのだから、日本は何かがあった時その形式が整っていた、と大体事故などがあった時申し開きをしているが、結局社会的な批判により社長が辞任しているのをよくみることである。尼崎の脱線事故や雪印乳業の責任のとりかたである。その根底には「事故が起こらなければいいではないか」とか「問題がでたら考える」「それに時間と労力お費やすよりも生産の巧率が先だ」「事故が起こるのは社員の注意力の弱さで個人の問題だ」というように考える社会だなとみえる。
それが、この国やいままで見てきた国は違うのである。日本は言い訳のための制度であるようだ。
これがこの国では国民の合意にまで作り上げているのは、ひとつの文化になっている。弱いものを労わる習慣と文化はこんな末端の車掌から徹底して初めて文化になるのだな、と観た。日本が今、後期高齢者の医療費を独立採算に切り替えるとか、長期入院患者を持っている病院の診療報酬を引き下げ、病院から患者を追いだすようなシステムを考えるのはやはり形式主義や経済優先主義の制度を次々と出す政府の考えが、国民一人一人の尊厳というのが疎かな考えからきているのではないかと、今日の車掌の動きを見ていてここらあたり原因があるのではないかと気がしてきた。
海岸に出てみたら、やはり海は濁っている。その濁りは汚れではなく、砂が粉のように細かく波に浮く現象のようだ。海岸の景色も良いし、砂浜も綺麗だから、リゾートには良いが、欲を言えば、ブルーの海がほしいものだ。
僕のホテルはヨーロピアン,ホテルといってここでは有名なのか、タクシーもすぐ知っていた。朝食、夕食時にはピアニストが生の演奏をして呉れている。一番賑やかな場所にあるホテルなのだが、日本食がないのは不思議だし、やはり日本は遠い国だからだろうか。一日歩いても日本人らしい人には合わなかった。

土砂降りに灯の濃くなりサンパウロ まだそんな時間でないのに暗くなる
土砂降りや店畳む人の傘の中    サンパウロは土砂降りが多い露天商は慣れたもの
野良犬と3匹の夏無宿人      サンパウロは無宿人が多い
人込みの夏に一人の日本人     ウルグアイには僕たった一人であるのか
一人旅そろそろ慣れて秋の風    ウルグアイは秋らしい
朝夕にピアノを叩く秋の宿     専属の老人のピアニスト
キー打つ目いまだ老いとは思わねど パソコンのキーを打つのに目の疲れがはやくなる

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:14 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(43)2010年3月28日 サンパウロからウルグアイへ
ホテルにタクシーを6時半に呼んでもらったら、6時15分にきたから慌てた。この前のホテルでも指定時間よりもやはり15分ぐらい早くきたが、早朝の早すぎるのは少し迷惑である。慌てるからまた汗が出て、荷物はぎりぎりにしているのだから、また着替ねばならないからだ。
早朝の時間だから、表示が割増の②ナンバーになっている。早朝に走ると街の中心あたりには浮浪者が沢山寝ている。ブラジルは暖かだから何も着ずに、雨さえ避ければよいからであろう。浮浪者が昨日塵袋を開いてなにか食べていたから、腐らないうちに開けば食べるのには困らないのかもしれない。
飲むのにも飲み残しもあるようだから、酔い潰れで昼でも酔っぱらいもかなりいて、椰子の木陰でゴロゴロしていて、そんな仲間が集まっている場所もある。
空港までは40分ほどでついた。昼間だと75レアルだが、やはり割増だから97レアルになっていたから、100レアル渡して釣りはチップにした。
ウルグアイについては全く計画していなかったので、予備知識が全くない。ウルグアイラウンドという世界の金融経済会議があったように思うが果たしてどんな会議だったかまでは知らない。空港で感じることは、暑いが爽やかな暑さである。そして、街が整備されていて、一目で豊な国であることがわかる。
日本円3万両替したら、5313ペソになったから、0,178をかけたら日本円で換算できる。タクシーがホテルまで780ペソであったから4300円ぐらいになる。
空港から海岸沿いに走ると砂浜が続いて、その沿岸には高級なホテルが並び、リゾート地であることがわかる。たくさん泳いでいるが、海の色が濁っているのは、雨でも降ったあとなのだろうか。
運転手が、次々に写真を撮る場所を解説してくれるほどきれいな海岸が続く。ホテルは予約してあるから、簡単に着いたが、今日は日曜日だから、ほとんどの店が閉まって、人通りはない。
ホテルに聞いて午後からの観光バスに乗るつもりだったが、観光バスは無いという。そのかわりに、メインのバスに乗ればほぼ見どころが見れるからといって、522番のバスを紹介してくれた。この街はモンテビデオといって、名前は聞き覚えがあるが、その特徴まではわからない。だから自分でこの街の特徴を探すしかない。一番他所と違うところは、道路の両側に高さ30mもあるプラタナスの葉が茂っていることだ。バスの高さ以上のところまで枝を刈られていて、まるで緑のトンネルのようだ。なかなか感じがよい。海岸も通るコースで、なるほど観光バスにのらなくても名所をくねくねと通ってくれた。
古い町並みではあるが、おそらく200年はたっていないビルで、海岸は近代的なホテルがたちならんでいる。
日曜だから町の動きはわからなかった。バスは終点まで行きまた引き返すのだが、帰りは自分のホテルの位置は確認できていなかったから、バスのドライバーに、僕のホテルの地図を見せてその近くで下してくれるように頼んだ。すると降りるように教えてくれたのが、全く違う場所だったようで、降りてからたくさんの人に聞くのだが、なかなか分からない人ばかりである。どう間違えてドライバーは教えてくれたのか、僕の聞き方がおかしかったのか、なかなかホテルまでは遠いらしい。僕は昨日ホテルで暑すぎて今日は少し熱があり、もう歩くのに気力をなくしていたから、結局タクシーで帰ることにした。タクシーでも相当走ったから、とても歩ける距離でなかったことを知る。
ホテルでパソコンを開いたら、土井先生からメールが入っていた。
「ブラジルは36歳の時、世界脳神経外科学会がサンパウロであって行ったことがあります。日本人町に立ち寄ったことを懐かしく思いだします。大きな赤い鳥居もありました。私は4月7日から12日まで岡山市と洛陽市が姉妹都市ですので訪中団で行きます、にわか副団長でなにも中国のことは知らないのですが、仲良くしてきたいと思います。一緒に南米の旅をしているようで、日記楽しみに読んでいます」とあった。

土砂降りに灯の濃くなりサンパウロ まだそんな時間でないのに暗くなる
土砂降りや店畳む人の傘の中    サンパウロは土砂降りが多い露天商は慣れたもの
野良犬と3匹の夏無宿人      サンパウロは無宿人が多い
人込みの夏に一人の日本人     ウルグアイには僕たった一人であるのか
一人旅そろそろ慣れて秋の風    ウルグアイは秋らしい
朝夕にピアノを叩く秋の宿     専属の老人のピアニスト
キー打つ目いまだ老いとは思わねど パソコンのキーを打つのに目の疲れがはやくなる

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:12 | Comments(0)

中南米の旅

(41)2010年3月26日 ブラジル日本移民博物館
これからこのホテルに滞在する予約をし、3月22日から27日までと4月の1,2,3,4、7,12日の12日分、その全体のホテル代をVISAカードで支払い、663、2レアル(40900円)であった。これであとは昨日旅行会社に飛行機代、ホテル、ツアー代も含めて支払ったので、毎日の行動費だけでよいことになる。
ホテルはおそらく一番の繁華街の中にあり、交通は便利である。一日が65レアルとかいてあるが、長期だから割引するといっていたので、この値段になったのだろう。
 今日はブラジル日本移民博物館に行くのが目的である。ホテルで地図を示し教えてもらった地下鉄の駅で降りた。日本人の顔をした人に聞いたら、2世だったが、長野に5年働き行っていたから、その時日本語は覚えたということで、日本も仕事がなくなったから帰国したと言う人だ。あなたは一つ遠い駅に降りている。私もその方向に行くからバックしなさいと言い、移民博物館までつれてくれた。さすがサンパウロのこの地域では日本語を話す人が多いので助かる。でもこの東洋人地区を離れるとやはり少ない。
 移民博物館では2世の人で60歳近い男性だがあまり日本語が達者でない人が受付だった。
1908年(明治41年)第1回の移民が始まったという。笠戸丸という船であったが、これは、ロシヤの艦隊の病院船だったのをあの戦争の時日本の手に渡ったと解説がでているが、どうゆういきさつで日本に渡ったとまでは書いてない。その軍艦を改造して移民船にしたらしい。その船で781名を送りとどけたという。
戦前戦後を通じて40余隻が輸送にあたったらしい。船内生活は長い航海中、奇港地の風物や船内のいろいろな催ものだけが楽しみで、船内新聞も発行されたり、子供たちのために学校も開かれていたという。
移民の人たちは、初めての外国であり、日本では沖縄や四国などの比較的貧しい農村の二男、三男などではなかっただろうか。不安と希望と錯綜した移民だったのではないかと思う。
この移民のことをコロノ移民(入植地)というらしい。移民たちはすべてのものが初めてのものばかりで、食べ物、コーヒー園の作業、使いなれない道具を使ってする作業は辛いものだった。
日本から持ってきた道具やアイデアを生かして新しい生活になじんでいったようだ。でも最初の入植者にたいしては、先住者であるポルトガル人などは奴隷の代わりと考えて使用する雇主のもとで働かざるをえなかったようだ。毎日馬に乗った監視員が作業の確認でノルマのように、日の出から日の入りまで働かされている。
日本にいるのも地獄、ここでも地獄と思ったひとたちがおおかったという。土地の開墾から農業には一年単位でしか生産物は商品にならないのだから、雑草を食べたりせねばならなかったという。
おそらく満州開拓、北海道開拓の人々も同じ体験をして、自分たちの生きるみちを作ったのだった。当時の家も丸太で拵えたおのだし、雇われて働く食べ物も日本人には合わなく働く体力もでなかった生活だったようだ。それに耐え現在え現在では卵の生産、養鶏の約七割を日系人が占めているらしい。柿や桃の栽培、葡萄、ぽんかんも日系人が普及し、ジュートは日系人が考案した産業になったという。
農業協同組合も日系企業で占められているし、農産物市場は日系人だというところまでブラジルの経済を動かすぐらいの力もついてきているという。
だがあの大戦中には日本の新聞が発行禁止、日本人学校が禁止になるなどして、敵対関係になった時期は日本人にとっては苦しい時代であったようだ。
その当時日本人どうしが分裂し親日、反日と争ったこともあったというから、悲しい時代を経験していて、気の毒であった。
昨日もそうだったが、今日も夕方になると大雨がくる。雷が最初に大きく鳴りそれから土砂降りだ。出先からどうして帰ろうかと思うぐらいだが、三〇分もしたら止む。ここの人たちは良く分かっていて、街頭で販売している人たちは逃げれる庇の近くを確保していて販売をし、雨が終わったら、また店を出すといった知恵をもっている。
僕のホテルの近くでは夜になると道路いっぱいに南米の音楽で踊りにでる。だれでも飛び入りで踊りだすから、音楽じたいがうきうきして大衆に親しまれるリズムだからだろう。
群衆だからどんなことがおこるかわからないから、八時になったらホテルに帰ることにしている。
このホテルは200人ぐらい収容できるようで、警備員は2人拳銃を持つて警備にあたっているから、治安がまだ安定していないのかもしれない。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:09 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(40)2010年3月25日 次の旅行計画完了
旅行会社に行くと、次のようなプランが出来ていた。
3月28日 日曜日ブラジル9時25分→ウルグアイ12時00着所要時間 2;32分
ウルグアイのホテル2泊 払込済み
3月30日 ウルグアイ19時55分発→パラグアイ21時45分着 所要時間 1;55分
パラグアイのホテル 2泊 支払済み
4月1日 パラグアイ19時00→サンパウロ着21時00  所要時間    2;00分
この間サンパウロ市内
4月5日 サンパウロ 9時30分→マナウス(アマゾン)12時20分  所要時間 3;50分
マナウス(アマゾン)ホテル2泊  支払済み
4月7日 マナウス発16時10分→サンパウロ着20時55分
4月7日 サンパウロ泊
4月8日 サンパウロ発22時00→ボリビア朝の2時着(9日)
ボリビヤは9,10、11日の3泊ホテル 支払済み 
4月12日ボリビア発2時30分→サンパウロ着 8時15分 途中給油のため1回着陸する
4月12日夜はサンパウロ泊
4月13日 日本へ帰国のため21時50分発

パソコンを使える場所がみつかった。おそらく民間でないのではないか。
無料だし、パスポートが必要であった。昨日までインターネットカフェに2店いってもYAHOOが開けなくて困っていたが、ホテルのすぐ近く、しかも無料というのだから有難い。
2日間パソコンが開けなかった内に、5件のメールが着いていた。
東京の井上弘さん(同友会前代表理事)
「お1人のアドベンチュアー旅行、素晴らしいですね。一人歩きの経験者として、その勇気と行動力に敬意と羨望を感じます。貴方の行動力は我々高齢者に希望を与えてくれます。小生も家内の許可が得られたので、4月19日から5月1日までエジプト、トルコ、ギリシャを旅することになりました」。
井上さんは事業のほうで僕など足元にもおよばない人だけに、僕より2歳も上だったと思うのに、僕がまだまだ見習いたいと思っている人だ。
同じく大阪同友会の前西さんから
「治安が悪いのは困りますね。ハラハラしますね。コロンビアが紀元前から高い文明を誇っていたとは知りませんでした。ギリシャと同じく紀元前に栄え、その後歴史から消えた国ですね。日本もそうなるかも知れません。大昔中国の隣に日本という国があったらしいと言われないようにしたいですね」。とある。前西さんは、世界に輸出するたくさんの製品を作られているから、絶えず国際的な視野で動かれているから、僕の日記をよく読んでくださっているから、ありがたい。こんな人は僕と共通の世界にたいする興味があるから、共通の興味も共有していただいてるのかも知れない。
 岡山同友会の横谷敦子さんから、久し振りのたよりだ。
「こちらは桜が咲きかけていますのに、このところ毎日雨でまだ寒いです。益々バイタリテイーの日本のオジサンの旅日記、旺盛な、どの国でも人との触れ合いを大切にする、宮崎流の旅、ほほえましく羨ましく、楽しみながら、こちらも知らない国を一緒に旅している気分です」彼女は僕と同年だが、いつまでも若い。僕と共通の冒険心があるから話があう仲間だ。絵の先生だったが、描き続けているようで、毎年の年賀状の絵は楽しみにしている。
ボストンの稲田美沙子さんからの便り。
「お元気の旅、なによりです。興味深いお話を楽しんでおります。コロンビヤといえば麻薬大国で物騒という印象しかなく、それも一人旅ということは、とても勇気のあることだと思います。選挙の投票の様子や田舎の村へ塩鉱を観にいったり、ボゴタの町を知る鍵のユニークな観察など目に見えるようです。一番興味を持ったのは、日本の企業戦士です。このことは、もう過去のものと思っていましたが、妻子を日本に残してあちこち飛びまわっていられる方がまだ沢山いられるのですね。家族あって始めて仕事への活力が出ると思うのですが?。また妻が休暇中、夫は休暇をとって子供の面倒をみるのは、日本ではまだまだ考えられないことかも知れません。 スペインへは過去2回行き、自動車で全国を回りました。人は親切で、食べ物は美味しく、歴史と文化、丸ごと好きになりました。フランシスコ・ザビエルの生まれた城にも行きました。今までは日本の歴史との関連の視点で見ていましたが、中南米との関連で見ることが必要と感じました。スペイン各地の大聖堂の内装はすべて金で出来ていて、信じられない豪華な彫刻が高い天井まで続いていました。そういえば、これ全部中南米から持ってきたのですよね。さてこちら北国(ボストン)はまだクロッカスが咲きだしたばかりで、昨日はそのまわりに金網を置きました。昨年クロッカスの花をすっかり食べられてしまったからです。多分野兎の仕業だと思います。今週はニューイングランド、フラワーショーで生け花を生けます。外はまだ寒くても内だけは春という趣向です。お体に気をつけて元気に旅を続けられますように。 稲田美紗子」。嬉しい便りで、こんなに丁寧に日記を読んでくださる人がいることで、ますます、毎日の感動をどのように皆さんに伝えるかというのが、楽しみになってきた。稲田ご夫妻はイタリヤのシチリヤ島で知り合ったアメリカ国籍の日本人で、昨年は早速大阪で再会できた方である。その時もなんか心が通じあえるご夫妻だった。
 信顕はらは、元気に楽しんでいるようで、なによりです。通信の21、25号が着いていません。暇の時でもいいですから、送信たのみます。とあった。
今日旅行会社の章子さんの話によると、ブラジルの学校は授業料は大学まで無料だが、大学に入るのに予備校にいかねばなかなか入れない。予備校の授業料がたかくて5万ぐらいするという。大学を卒業すれば安定の仕事につけるが、大学は無料だけど少ないらしい。だから大学進学は難かしいらしい。
医療については新しい政権になって無料になったが、急救以外は順番待ちだから、なかなか順番がまわってこないから無料といっても、すぐ治療が受けられるわけでない、医師と病院不足らしい。「今から10年前ぐらいは日系ブラジル人は父母の国は天国のように思い出稼ぎにたくさんの子息や孫たちが働きに行ってものだったが、そのころ3年日本で働いたらブラジルで小さな家が新築できるぐらいの格差で母国に憧れた時代もありました。そして、真面目な家庭はマンションをいくつか買い、それを貸してその収入で楽な生活をしてる人もある。その一方で、あなたが昨日出会った人のように、ブラジルに残された奥さんや家族が贅沢に慣れて、生活が乱れている人々もたくさんでている。そして悲劇的な家は旦那が日本に働いているあいだに別の男性となかよくなって旦那が帰国したら離婚したという話も沢山あり、よいことばかりではなかったですよ」こんな仕事をしていると、そんな話がたくさん聞くそうである。
いまでは日本で仕事がなくなり、出る人はほとんどなくなっていて、ブラジル自体も最近、アメリカの新自由主義政策から決別してアメリカ資本から脱却して中南米共同体の構成員になっているようで、自分の資源は自分たちで管理運営する政策に新政権がかえつつあるらしい。
この国だけがポルトガル語を使用していて、最初に植民地にしたのがポルトガルだったからであるが、最近はポルトガルの影響というのは少ないらしく、使用言語だけが残っている感じだと章子さんは言っている。
むしろ、地域によって、日本人、イタリヤ人、中国人、ポルトガル人と住みわけしている感じらしい。
日本人街には殆ど県人会があり、親睦会として郷土を懐かしがっているらしい。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:07 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(39)2010年3月24日 旅行会社で打合わせと日本人街を歩く
やはり飛行機での9時間ぐらいの、しかも深夜だったから寝不足だったのだろう。目が覚めたのは9時をまわっていた。朝食を済ませ、昨日の日記を打ちこんでいたら昼になる。このホテルではインターネットが無いから日常の動きは携帯電話のメールでしかできないかもしれない。
 旅行会社にいって、これからのプランを相談することにした。
章子さんという担当者は50歳を過ぎたぐらいの人でなかなかおっとりとした親切な人だが、なんだかスピード感がない。でも僕の気持ちをよくくみとろうとして、一生懸命に考えてくれている様子はわかる。だから好感はもっている。アマゾンへの旅は黄熱病の予防注射の効果がでる4月5日以降の2泊3日は決まったが、それまでの10日余のプランが、リオデジヤネイロだけは飛行機で日帰りでもいけるらしい。リオのカーニバルは年に1回だけだから、それ以外は半日もあれば十分だそうだ。首都のブラジリヤも新しくできたビルだけで東京、大阪の中心街をみていればそんなにかわらないから、名前は知られてないが田舎のほうがよいかもしれない、という意見だ。
イグアスの滝は昨年アルゼンチン側から観たし、それだったら、いっそのこと近隣諸国に足を伸ばそうと思いついた。ボリビアとペルーは黄熱病の予防注射が必要というし、アマゾンの次にし、パラグアイ、ウルグアイ、を計画してもらうことにした。少し時間がかかるから近所でも散歩して下さいとのことだから、出かける。
旅行会社を出たらすぐ日本婦人にあったので訊いてみると、16歳の時、家族と一緒に高地県からきたという。アマゾン地方で働いていたが仕事がすくなく、こちらにうつってきたらしい。ここでは日本人が多いから働く場所もあるし、ここで知り合った日本人と結婚したそうだ。65歳というから今から40年ぐらい前のことである。「日本では父も仕事がなかったから、どうせ同じならとこちらに一家そろって来たが、結果的に、まあ楽ではないが安定してきたから良かったと思います」と話してくれた。なかなか上品な婦人であった。だから写真を撮らせてください、といったら「わあ恥ずかしい」といって日本婦人らしい恥じらいをして写真におさまってくれた。
最初は昨日歩いた橋に出たら、やはり名前が「大阪橋」と橋の真ん中あたりに日本語の切り文字で表示されている。
その橋の上で日本人の老人が宣伝らしい名刺版をたくさん持って配っていられた。花鬚を貯えている。この人はこちらで生まれて日本語はあまり喋れないが、両親が沖縄だったという。なかなか恰幅のよい紳士なのだが、年金暮らしだからこれで働いている、といっている。
この通りにしては大きな仏壇店がある。日本とまったく同じ仏壇がたくさん展示してあり、買いにきていた日系人夫妻は50代だったがあまり日本語は上手でないが、両親の仏壇を買いにきていられるところだった。言葉は日本語は家では使わないが宗教は仏教で、お寺もこの近くにあり、両親に毎日手をあわせていると言っている。
こちらの坊さんはこんな人に何語で仏教を説いているのだろうか。でも両親が信じていた仏教が子供にとっては両親との絆としてふさわしいのであろう。
つぎにカタカナで現地の蜂蜜からできた薬を製造販売している店に寄ってみた。ご夫妻と息子さんで店をだしているが、「日本にも蜂蜜はあるが、ブラジルの蜂蜜から作る薬は非常に健康によく、ブラジル人にも愛用者が多い」らしい。戦後福岡から来たという夫妻だが、やはり僕の一人歩きは旅行者とすぐわかるから夜の一人歩きは注意してくださいね、と心配してくれていた。
次に、「ぜんざい」「のりまき」「きなこもち」と書いた店にはいった。奥さんは日本人だが店員さんは白人にちかい顔をしている。「きなこもち」を注文したらちょっと待ってくださいねと、なりどうやらもちをレンジでもどしているのだろう。うすい餅にきなこをたっぷりかけた日本のきなこ餅であった。「ぜんざいもありますから、またきてくださいね」とのことだった。日本人ばかりでなくこんな店も流行るのだなと、店が綺麗に内装されていることで感じられる。
また日本人男性で71歳という「次男」と自己紹介してくれた人が、名刺ビラを配っている。この人も2世であるが、横浜に出稼ぎに10年、山崎パンで働いていたという。その時日本語は覚えたから、ひらがなしか日本語は書けないとのことだ。奥さんも日本人だが、毎月日本から仕送りして、もう老後の生活ができるだけの金になったと思い帰国したら、仕送りした金は妻は貯金せずに全部つかってしまっていたという。なにに使ったのかわからないが、残念で、日本で働いたのが無駄だったような気がしている。「10年のうちで何回もブラジルに帰ろうか?と妻に言うと、まだ帰らなくていい、というのでした」だから妻とは帰国後あまりしっくりいっていない。妻は朝食にトーストとコーヒーを作ってくれるだけで、自分は昼は外、夜も食べてかえるから、家族があるように思えない。息子と娘も嫁いだりして家にはあまり帰らないから、寂しい生活だ。今は年金が2か月に3万もらえるだけで生活はできないから、こんなビラ配りをしている。こんなんだったら日本から帰るんじゃなかった。
日本に居る時は妻のことばかりいつも考えていたのだが、としみじみ語ってくれた。とても僕より若いようには見えない風態だった。
こんな話を旅行会社の章子さんに話したら、「日本に出稼ぎに行った留守宅でそのような話が多いのですよ」ということだった。
「この町は日本人が作ったのだが、最近は支那人が店を買いとって、経営者は大部分が支那人経営になったおですよ」一番初めに合った婦人が説明してくれたが、なるほど昨日食べた寿司屋でも中国風の飾り物が置いてある。
「支那人はよく集まって仲間意識がつよく、共同で仕入れたりして、商売がうまいです。日本人は他人が発展するとねたむところがあるのかもしれません」とも言っていた。
夕食には日本人商店街で、焼きサバ、煮しめ、テンプラ、寿司、おにぎり、それにおはぎ3個を買って帰る。また柿も昨日美味しかったから買う。今ここは秋にはいったところらしいから、柿が美味い。
パソコン店に行ったがYAHOOでも日本語がでない。だから見つかるまでパソコンの送信ができないことになる。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:05 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(38)2010年3月23日サンパウロに着く黄熱病の予防注射
飛行機は隣が空いていたからゆっくりとはいかないまでもなんとか眠ることができた。
この飛行機にも日本人は乗っていない。3分2ぐらいの搭乗者だから、僕と同じように横になれている。昨夜12時半ぐらいに機内食がでたが、僕はマイアミ空港で寿司を食べたので殆ど手をつけないでジュースだけにした。
サンパウロに着いたのは8時半だった。だから9時間ぐらいの飛行になる。本当はコロンビヤからブラジルに直接飛んだら半分ぐらいの時間で来れるはずなのだが、なぜこのようになったのかは分からないが、多分安い方法を考えてのプランをたててくれたのかもしれない。だけども同じアメリカン航空なのに何故なのか疑問がのこる。だからマイアミを往復したことになり、なんのための往復なのかがわからない。
着いて先ず両替してもらった。コロンビヤペソの残り、が198000→139レアル、ユーロ4万→908レアルになり228を掛けるという計算いなっている。だから今後230を掛けたらこちらの物価がユーロでの勘算になるとしよう。
サンパウロに着いて先ず黄熱病の予防注射をするのが一番だと決めている、ブラジルで一番の関心事はアマゾンへの旅だったから、それには予防注射が必要で、その効果がでるのは10日後だというから、第一番に空港で訊ねてみた。
すると、最初に日本人を呼んでくれ、さすがブラジルだなとまず安心できた。
予防注射はホテルに行くより先に行き、またここに帰ってきて予防注射済みの証明書をここの保険所の窓口で発行してくれるらしい。その予防注射は中央病院のようで、そこまでタクシーで走る。
タクシーが75レアルである。空港でのタクシーの事務所がチケットで計算してくれるからその代金を支払えばいいから安心だ。これはキューバ、コロンビヤでも同じシステムだったから、旅行者にとってはありがたい。
予防注射の場所に行ったら、パスポートを提示すると医師がどこからきたのか、何日滞在するのかと質問し、看護婦さんが注射をしてくれた。お金を聞くと無料だという。
これはおそらく国の政策として行っているのだろう。有難い制度である。注射済みの証明を出してもらい、入国事務所にそれを提出したら証明書を発行してくれた。これで気にしていた黄熱病の手続が完了し、ブラジル国内の旅行ができるようになったわけである。
それからが、予約していたホテルへと行くことになったから、市内へタクシーで3往復したことになった。
サンパウロに入国して先ず感じたのは、空気が綺麗なこと、緑が多いこと、道路が綺麗に整備されていることなどである。そして空が青くハワイの空のようだった。だから清潔感がある。でもいきなり外は暑く日本の眞夏と同じである。
ホテルは信顕が予約してくれていたから探すことがなく、有難かった。いままでのなかで一番賑やかな商店街の中にある。部屋もきれいであかる。ツインべッドである。だが冷房が無いのが不思議だ。おそらくこの国の人たちはこんなのに慣れきってるのであろうか。湿度がないから、寝苦しいことにはならないのかもしれない。
たしか3日間の予約だったと思うが、お金の請求が無いのは前納してくれているのだろうか。
サンパウロ市は1900万の人口があるということは知らなかった。東京より人口が多いということもここにきてから初めて知った。日本人が多いし、明治の始めごろ移民がはじまり、現在は日系ブラジル人は130万ということは説明書に出ているが、町を歩いてみるとそんなにみかけるほどでもない。
まず旅をするにしたら日本人の旅行会社に寄り今からの手掛をつかまなければならないと、グローバル・トラベラーズ・サービスというところに行くことにした。ホテルから地下鉄で2ツ目だし、歩いてでも行けるらしいが、地下鉄に乗る。この暑さで探すのは労力の無駄使いするような感じだから。地下鉄で降りて日本人らしいお婆さんに声をかけたら、「私は日本人ですが全然ブラジル語がわからないんです。息子のところに来ているだけですから」というが明らかに相当長く住んでいるのは間違いなさそうな身なりであるのだから、日本人で、日本語だけで生きれる街のようだ。一番に目につくのが赤い鳥居が賑わいの商店街にたち、それも日本で見かける鳥居よりも大きいいし道路が5mぐらいの幅にそれいっぱいの幅、高さも5mぐらいだ。道路ぞいには灯篭がぶら下げてある。そして日本文字で商店の看板、雑貨店にはいり、娘さんに聞いたら「日本人ですがここで生まれたので日本は知らないです、お爺ちゃんとお婆ちゃんが日本からきたので漢字はわかりません」とのことだ、道路の上に橋がかかっているが、橋の欄干は朱色でしかも京都の四条の橋のようである。
移民の人たちが日本を懐かしみ、少しでも日本から離れていることを忘れないために作ったのだろうか。
また50歳ぐらいの男性に「日本人ですか?と聞くと」「はいそうです」とは言うのだが、地図をみせて旅行会社の住所を聞くともう日本語が通じなくなる。こんな人たちが入り混じった日本人社会になっている。
旅行会社でアマゾンへの飛行機を頼んだら往復で694,84レアルだというから、日本円で21000円ぐらいになる。市内観光バスは無いらしいし、日本人ガイドを1日頼むと500ドルということだから45000円ということは高すぎる。1桁違うのではないだろうか。
またアマゾンの旅行は飛行機だけにして、ホテルは着いてから探すことにした。
そこを出て日本料理店あがったので、夕食にシャコと海老、それに雲丹の寿司にしら、なかなか美味い。寿司が15、ビールが8,5それに10%の税金で31レアルになった。
もう6時近くになったので帰りを間違いないようにと明るいうちに帰ることにした。地下鉄は2,5リアルである。
昨夜の飛行機で9時間近くだったからやり疲れたのだろう。眠くなってきた。
信顕から携帯の返信で、「きあらへの誕生祝いのメールありがとう、今度の旅でのメールは誤字もなくちゃんと読める文章になっていたね」とあった。



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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:04 | 旅行 | Comments(0)

中南米の旅

(36)2010年3月21日 ボゴタ市内考古学博物館
カメラが見つかったことを新井さんに電話して知らせた。電話の掛け方をホテルのマスターにかけてもらったからだが、日本の携帯からは、頭に031の後に相手の番号をしなければ通じないこともわかった。奥さんが出られたがすぐ新井さんに代わったから、昨日の日本の弁当のお礼も言うひまもなかったから、日本の味を頂いて感激している。と伝えてもらった。
コロンビヤは今日が最後なので、ゆっくりして午後から一番繁華街のバス停でおり、考古学博物館に入った。この前は丁度1週間前で選挙の投票所になっていたし、その後一人で来た時はカメラのフラッシュが駄目で、そのフラッシュ無しでの撮影を今日は出来るようになってきたから、こんどは、めぼしいのを全部納めることができた。
コロンビヤをはじめ南米では紀元前5000年ぐらいから、土器の製作ができていたし、紀元前2000年ぐらいから鉄器も作られていることがわかった。スペインよりも古い歴史を持っているのに、植民地にされて気の毒に思う。釣り針なども紀元前にすでに今と同じのができていて残っていた。
帰国してゆっくり写真で調べてみたいことがたくさんでてきた。
コロンビヤはキューバよりも建物や、車は新しい国だが、衛生的にはキューバと変わらないほどまだ遅れているようだ。街頭での食べ物などが販売されていてもどうしても食べる気になれないのは、埃がすごいことと、販売している人の服装がまだ衛生的でない。
それに治安が悪いという噂があるのは、多分犯罪が多いのは事実かもしれない。警察がやたらに多いし、個人商店の警備に拳銃をもった警備員がいることでもうかがえる。それに路上でのごろ寝の人が多いということだ。
今日は日曜で殆どの会社、商店が休んでいるが、かく店の鍵の大きいのには驚く。これは堅固に見せかけすることで防犯になる予防措置とみれば理解できるが、逆に考えると、治安に不安を持っていると見るべきかもしれない。
これは社会保障が相当遅れていることによって犯罪を生む原因を作っているともいえるのではないか。
昨日、新井氏が一人歩きの時、どこの国か?と聞かれたら韓国ぐらいと言ったほうが無難だろうということだ。日本人は金持ちだと思っているし、危険だし、中国と言ったら、ボゴタの人は軽蔑する風潮があるらしい。中国は蛇を食べる民族だし、犬をも食べるから少し生活文明が低いと考えているらしいからだという。文明が低いというのはどうかと思うが、蛇や犬を食べないのは僕でも気持ちは同じだから、なるほどと思う。
韓国についてはここの小型タクシーは殆ど韓国製らしく、なじみが深いらしいし、評価がたかいらしい。
ここで4時間ぐらい歩いたら疲れが早いが、やはり2600mの標高だから足の踏ん張りに力がはいらないからかかもしれない。
昨日部屋を掃除してくれた時、僕の風呂での、たわしのようなタオルが無くなっていたが、どうやらゴミと一緒に捨ててしまったようだ。マスターが心配してくれたが、ノープロブレン(心配いらないよ)と言っておいたが、やはりシャワーだけだと心もとないものだ。
コロンビヤをどうやら無事に終わることができたことは、ひとつの課題を乗り越えたことになりやれやれだ。

(37)2010年3月22日ボゴタ→マイアミ→サンパウロ
ホテルを9時半にタクシーで発つ。空港まで2万ペソだったが、紙幣2万ペソがあるからそれで支払、コインがあったのはドライバーにすべてプレゼントした。小銭があると次のブラジルの通貨とまぎらわしいからだ。
アメリカン空港のカウンターに行ったら、僕を覚えていてくれて、「元気?もう帰国するの?この前は大変失礼した」というのだから、マイアミからボゴタにスーツケースが着かなくて翌日この人に世話になったから覚えてくれていたのだった。日本人が少ないことと、トラブルなど少ないから、そして僕が高齢者だから印象に残っていたのだろう。
3時間ぐらい待ちあわせがあったので「道標Ⅱ」を読んでしまうことができた。今から80年前のモスクワから、ワルシャワ、ウイーン、ベルリンへの旅だが今とあんまり違和感がなく、丁度僕も旅行中だから人々やホテルとの会話、それに異文化との接触することが80年前とあまりかわらないのに驚く。しかも百合子(小説家)と素子(ロシヤ文学者)の二人の旅で、あの頃でも結構日本人がモスクワ、ウイーン、ベルリンにいたのだということを知った。また80年前に歌舞伎がモスクワ公演をしたことも初めて知ったが、1930年だったか、あのヒトラーの国会放火事件前だったので、ドイツは非常にロシヤ革命に刺激されて、国民の意識がたかまり、労運動動が高まったのに危機感を持ったようだ。そこでドイツ民族優越思想をヒトラーが唱え、国家社会主義というファシストの集団をつくったと記憶している。その危機感が、ヒトラーをして国会に放火し、それを社会主義者の仕業として弾圧し、ドイツ民族が世界で優越民族であるという思想をつくりあげたのだった。そしてユダヤ人迫害が始まっていった。その直前に百合子などがベルリンを訪問している。だが1928年にウイーンいた百合子は英字新聞を読んでそんな気配をもう感じとっている。
昨年のシベリヤ鉄道のとき百合子の旅をたどるつもりで「道標」を読みはじめたが、モスクワ、ワルシヤワ、ウイーン、ベルリンも昨年一昨年と訪問したので、あと先になるが、自分の辿ったコースを80年前に書いているが、全く時代を感じさせないようなことがその当時からヨーロッパの文化は現代に近い状態だったようだ。
だけども、30代だった百合子は今の僕より40年も若いのによくもあの記録文学が書けるものだと感心している。
 ボゴタからマイアミへは200人ぐらいだったが、日本人は全く乗っていない。隣の席にスペイン人でアメリカのプリンストン大学の助教授で世界文学とスペイン語について講義しているという先生と話す機会がえられた。日本についての松尾芭蕉の俳句いついても、季語、五七五で世界の最短のポエムであることも知っている。僕も俳句をやっていることを話したら、僕の俳句も知りたい、是非教えて欲しいとのことだ。日本語は出来ないが、自分の学生に日本人がいるから、翻訳してもらうから心配ないという。だから毎月「NHK俳句」の雑誌があるから、僕の古いのでよければ送ると約束した。彼はまだ二九歳と若いから交流が楽しみだ。いずれ日本にも行きたいといっているから、歓迎するといいっておいた。2年の契約で来ているからあと一年で帰るらしい。奥さんも文学を専攻していて、高校の文学の教師をアメリカでしているという。
マイアミには五時半についた。僕はこの前マイアミからボゴタの時、スーツケースが着かなかったから、今回は念を押して、ボゴタのアメリカン航空で荷物はサンパウロで受け取るようにしてね、と言ったが、「マイアミで荷物を開くかもしれない」というのだ。だったら、マイアミは中継地点だから、荷物が出るはずはないと思っていたが、念のために荷物渡し場で待っていると、僕のスーツケースが流れてくるではないか。
だから受け取って、また搭乗手続のためにまた荷物検査に並ぶことになる。するともう8時15分の搭乗には、荷物は間に合わないというのだ。僕にしたら、マイアミは中継地点で最終受取はサンパウロとばかり思っていたから、荷物を最初から検査するとなると、時間ぎりぎりになる。そして、「もう間に合わない」というのである。
これは一体どうなっているのだ、といいたくなる。キップは発券されていて、遅れれば次の便は明日になるのではないか、と気になってくる。
新しい搭乗券は前の券を持参したら、11時に同じサンパウロ便があるという。それに切り替えてくれた。こんなことってどうしてなるのか、僕にしてみたら、券をキャンセルした状態だから、また買わねばならないのだろうかと思ってしまう。ところが、このカウンターはなんのことはない、「次の便11時15分発にしましたからね」といとも簡単に説明するだけだ。
そんな ことで、11時15分のブラジルのサンパウロ行きに乗って出発した。僕の隣は空席だったので、まがりなりにも横になって寝ることができた。

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by akinishi1122 | 2010-04-24 06:02 | 旅行 | Comments(0)