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シベリヤ鉄道の旅(14)

シベリヤ鉄道の旅(14)7月29日 抑留日本人墓地訪問参拝
夏草の奥に抑留死者の歳  抑留者のほとんどは20歳代だったろうロシヤの今の若者たちが喜々としている姿をみると胸が熱くなる
午前中ホテルでゆっくりし、日記を書く。1時過ぎにでて、マルクス通りの広場要りで鳥の
丸焼を食べる。これは大きすぎて食べ残すかと思ったが全部食べれた。180 pだった。
今日の目標は日本人抑留者の墓地にお
参ることである。「地球の歩き方」本によると15
番のトロリーバスに乗り「ROPAK」にて下車と書いてあるが、トロリーバスと英語
で聞いてもだれも分かってくれない。ロシヤでは何と呼ぶのだろう。だから青年にトロ
リーバスの絵を書いてやっと解ってくれたが15番のバスがどこから出てい
るのかがわか分からないという。こんなにしていたら、らちがあかないから来たバスに
とりあえず飛び乗った。そして地図をみせて車掌に聞くことにした。ところが車掌も自分の範囲
でないから分からないという。次のバス停が大きいのでそこで聞いてくれと次で下ろされ
た。お金は不要だった。その次でも来たバスに乗りやはり掌車掌に聞く、するとこのバス
ではない次で降りて51番に乗りなさい。とのことだ。次もそうやってこの地図には大
きく出ている墓地なのに知らない風で「ここで降りたら多分わかるだろう」と降ろされた。
ところが下車して聞くのだがそんなところは知らないと中年の婦人。あそこにいる老人
に尋ねてみてください」とふってしまわれた。
その男性の高齢者が48番のバスに乗ったら行ける。と言われやはり車掌に地図
をみせて降ろしてもらった。

降りたところの最初に合った男性にやはり十字架を切って尋ねたら「ああキアーナか、だったら
あっちだ」と指さす。その方向に大分行くのだがそれらしいのが見えないから。また聞
いた聞いたら「貴方は反対の方向に来ている」とまた逆もどりだ。そしてなんとかたどりついた。入口付近にたくさんの造花がたてかけてある。だがその造花の中で若いカップルが抱擁の最中である。墓場の入口もなんもあったもんではないらしい。そして入口の写真を撮ろうとしたら二人が抱擁をやめて写真にポーズまでしてくれるのだからあっけにとられてしまった。キアーナという言葉は何回も聴くなかでこれが墓地であることを覚えてしまった。
墓地にたどりついてはみたものの、この大規模の墓地の中でどこに日本人の墓があるのかが問題だ。墓地はあまり手入れがされてなく草ぼうぼうで、こんなところにしかも異国でお参りにくる人すらないところに埋葬されているとは可哀そうである。墓石の高さ以上に雑草が繁っている。ざっと見たところ万はくだらないだろう。ここの墓には石に写真が刻まれていて死者の顔が解るのが多い。なのにお参りの形跡がないのは、やはり今日の時期がまだそんな時期でないのかもしれない。でないとあまりにも死者が気の毒である。きれいなのは最近埋葬されたとおぼしき土の色
でわかるが、その程度で古い墓は荒れ放題と言った感じ。
人に合うこともないので訊ききようがない、野良犬が2ひきいて気持ちがわるい。どどん
ん歩き一番奥にやっと日本人墓にたどりつけた。広さは5m四方に高さが4m中心は墓柱に「日本人死者の碑」とあり、建立者は日本国政府とある。2000年とあるから
まだ9年ほど経ったところである。国としての墓標だからこの墓地では一番大きいスペ
ースをとっているが、個人名がないからそうあってしかるべきだと思う。
墓碑の文字がうすれて写真に果たして撮れているかだ。クリーム色でメインの墓柱に日本
文字それに説明が左下に「ここには日本人のひとたちが生命を落としたところです。1
945年から1951年までの方々です」とあり、さすがに戦死者とは書いてない。
こんな日本から5000キロの土地でさぞ残念だったろう。戦死者ではないが戦争の犠
牲者である。ここに葬られた人たちの遺骨はすべて日本に運ばれたらしいが、その埋葬地
だったここに建てられたようだ。
この人たちの中には社会主義の教育を受け日本でその普及に努めるように教育された
人が多いと思うが他国の人民を強制労働にかりたてた行為との矛盾を感じて亡くなった
人もあるかもしれない。そんなことが歴史的にいまは検証されなければならないと思う。
僕が戦後にいた村でもシベリヤ復員の人たちが間違った戦争と、共産主義の正しさを普及
活動をされていたが、ひじょうに新鮮な思想であったことを今でも覚えている。63年前
のあの頃をここにきて思いだした。また今日のロシヤの青年たちが青春を謳歌している
のをみて、同じ20代の日本人がここで強制労働をさせらえそして死んでいっ
のだとあらためて胸がしめつけられた。
ホテルに帰ったのは6時頃でこれを書いて、焼肉やトマト、キュウリ、パンなどで夕食
にする。少々下痢ぎみだが昼の焼き鳥のせいなのだろうか。
家に携帯メールをいれ(理香がスイスに来るとき太田胃酸と爪きりを持ってきてほしい
)とかいておいたら、返事がきて、爪きりは洗面具のなかに入れてあります。とあったが、あれ
は挟みだから、本当の爪きりがほしいのに。

夕食後広場に散歩にでたら、広場では沢山の若者がダンスしていた。夏の夜の長きを
満喫していた。50代の婦人たちもグループでダンスしている。
いいなーと思う。

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by akinishi1122 | 2009-07-31 16:45 | 旅行 | Comments(0)

シベリヤ鉄道の旅(13)

13)シベリヤ鉄道の旅(13)7月28日 クラスヤノスク観光
9時15分クラスヤノスク駅についた。同室の婦人にプレジデントですか?と聞いたらダーというから実業家とわかる。どんな職種かを質問する言葉がわからないでいると、自分のノートを破って沢山の説明を書いてくれ、説明らしい言葉を添えてくれたが、僕には分らないから、名前を書いてくれと頼んだらその上に書いてくれた。いずれも続け字だから僕のパソコンに打ち込んでくださいとさしだしたが、キーボードにロシヤ文字が無いから打てないとのことだ。この婦人は適当にローマ字で略して打つというようなことはしたくないらしい。僕みたいな軽い性格ではないらしい。
名前だけでも発音してもらったら、イーメアと発音してくれた。そしてついでに写真を撮らせてください、と言ったら、愛想よくポーズもしてくれたから、僕との交流も悪くはなをいようだった。今朝からもずっとパソコンで文章を書いていたし、その間もたびたび電話もきていた。迎えに来てくれたのは女性で30代の化粧もしてなく、愛想もよくないそれに美人でもないし僕の荷持すらもとうともしない、いままでの出迎えの人とは違い好きになれない第一印象だ。そして英語もできないときているからこれはお客を迎える会社にしては失格だ。さっき同室の婦人からメモを書いてもらったのを翻訳でもしてもらおうと思ったのだが、メモを見ても何の反応もしめさない人だ。こんな人には土産も渡す気にもなれない。
ホテルはいままでの中では一番古い。設備はバスまであるが最新のに取り換えてなく補修したののつぎはぎだらけである。だが建ててあるあ場所はエニセ川というおおきな川の辺にあり向こう岸の緑も綺麗だし、300mぐらいの大きな橋が左手に見えなかなか良い眺めで気にいった。ここに2日泊まることになる。
受付でパソコンを使えるかときいたが、英語のヤフーがでても文字がロシヤ文字しかでないので街のパソコン店をさがさねばなるまい。
ここの時間は日本時間より1時間遅れるそうだ。
この街はレーニンが27歳の時から3年流刑されていたらしく、そのあいだにここで勉強が進んだらしい。レーニンやマルクスは時の権力からの迫害のなかで亡命生活が長いのによくも歴史に残る沢山の著作をあらわしているのはどんな勉強のしかたをしたのだろう。マルクスの資本論にしろ1800年代の日本人の社会制度なども記述されているしレーニンの帝国主義論にいたっては沢山の数字まで各資本主義国のが駆使されているのだから、本も持ち歩けるわけでないから図書館での勉強だとしか考えられないのだが。
ここの街のメインストリートの2本がマルクス通りとレーニン通りとなっている。帝政ロシヤの流刑地というのだから相当の僻地であったはずである。その当時は人口の23%が流刑人だったというからまさに革命思想温床の地ともいえるかもしれない。日本では佐渡島などの離れ島に時の権力者に反対する宗教者の人々を流刑にしたがどの時代、も新しい思想は弾圧されてより鍛えられた思想になり次代の夜明けがつくられるようだ。
クラスヤノスクという名前は日本では橋本首相がエリチン大統領との会談で北方領土の返還交渉をして合意した時に沢山報道されたから馴染みの名前はあるが、勘治な北方領土の返還が実現までいきついてないのは、吉田首相の時アメリカとの講和条約で領土問題を既存の状態で放棄するなどを国際的に公言したし、鳩山首相の時の日ソ平和条約でもその領土をそのままにしての講和条約だったからやっかいのようだ。日本の領土でありながらサンフランシスコ条約が足かせになっているのが原因のようだ。
ここにも戦後のシベリヤ抑留者がたくさんいて公共の施設などの作業をさせられ、たくさんの人々が死んでいるらしい。日本人墓地もあるという。市内からそんない遠くないようだから明日でも行ってみたい。ただシベリヤというと寒いというイメージがまず想像するのだが、こんなに暑い時があるとはなかなか日本では想像しないものだ。シベリヤ抑留といえば寒い冬に耐えられない死亡者だったようだ。
今は人口が95万人というから大阪市とかわらない人口の規模である。でも今日哨兵の丘から全しを眺めたところによると、街ぜんたいが緑の中にあるから、そんなに人口の過密は感じられない。
ホテルから市内に行く途中のホテルの並びに郷土歴史博物館があったからまず入った。まずびっくりしたのが恐竜のそのままの骨格である。高さが3m、長さが5mぐらいであろうか。それが発掘されている。それにこの地域の土着民の生活と道具、石器るいがたくさん陳列されている。文字が出る前の狩りのためであろう石に刻まれた鹿などの絵に人間の絵などが発掘されたまま展示されている。石の包丁、道具類や人間が火を使用するためのフイゴ、それに弓、矢、釣り針など陳列されているが、これはいままで日本、パリそして
、ポーランド、オーストラリヤ、ロンドン、サンチヤゴで見たものとほぼ同じであることに驚いている。
というのは人類の発展というのはモルガンやエンゲルスが述べているように、手の延長線が石が武器になり、石器のナイフであつたり、手の延長としての棒ぎれであったりしたのが、弓や矢になり、鉄砲になったのが考古学の発掘でみとどけることができる。足の延長線上に牛や馬、トナカイがここには人類の発展の手段として早くから道具の役割をはたしたこともわかる。だから単なる歴史学としてみるばかりでなく生の証明として考古学が感動的に現代と繋がってくる。マルクスやエンゲルスのえらいところは、単に過去を分析するだけから、それを史的唯物論まで組み立てて資本主義に発展しそれがやがて社会主義へと発展していくという未来を科学的に描いたところにかれら功績があったと思う。過去においても空想的社会主義者のロバートオーエンなどもいて、「こんな社会があったらいいだろうに」から人類の歴史には原始共同社会があったのだという発見をしたのも、この考古学からであった。そんなことを考えてみると理論の証明として忘れられない場所となりそうだ。この博物館はロシヤでも1,2の資料の揃った博物館だそうだ。
こんな歴史が何万年もかかって現代があるのに現代の歴史は僕が戦前の経験した農業に使う道具から僅か60年ぐらいでことごとく機械化され、そしてやがて戦争や公害で人類の築いた歴史を破壊しつくしかけていることの恐さを感じとる博物館である。自分に何か与えられた使命というものすら感じさせてくれる。
昨日眼鏡の片方のねじが落ちたので困っているので、つぎは街にでて眼鏡屋が2人ほどの人に聞いて辿りつけ、早速修理できたので、これで心の重みが溶けた。メガネがなければパソコンも打てないし人々との会話もできにくいから助かった。
50pだった。昨年はマドリードでやはりネジが落ちて修理したのに外国人の僕に無料で直してくれたからあの時の親切が忘れられない。
「地球の歩き方」の本に「哨兵の丘」に登ればこの町の全景が見れるというので二つのコースを聞いたので11番に乗った。すると若い女性の二十歳ぐらいの車掌さんがきて僕に「ショウバイ」と言って料金を請求するので笑ってしまった。だれか日本人がそんな言葉を教えたのだろうが、使う用途が違うので言葉の使い方で面白くなるものだ。
その車掌さんが教えてくれた地点から大分歩いてる途中に、近所の小学生ぐらいの子供に聞いたらなんと5年生ぐらいの子が煙草を吸うっているのにはびっくりした。
高さは300mぐらいの丘だが360度の展望ができて全体像がつかめた。ここは小さな教会だけがあり1855年にたてられたらしいが、現在は見晴らしがいいため結婚式をここで挙げる人が多いらしい。今日は僕と3組の人だけだった。
帰りはまた勝手に判断して、(道にでたらバス停があるだろう)と思い歩きだしたが、人がほとんど歩いていないし聞く人もバス停という英語もわからないから、結局下の道路まで汗だくになったなって歩くことになってしまった。ホテルの近くで下してもらうようにバスの車掌にた頼んだのだが、降りろと教えてくれてからまたバスにのらなければならない遠いところで下されてしまった。
誰かのロシヤ一人旅の紹介に、たくさん観てまわったが、印象に残ったのは「胡瓜の酢のものの美味しさだった」とあったらしいが、僕流に言えば(トマトとキュウリの生の味に食塩を振りかけて食べるのが最高に美味しい)としたい。
そんなわけでトマト、キュウリを今夜の分と明日の分を買ってかえった。
部屋に帰って冷たいビールにトマト、キュウリに、バナナなどとパンで夕食にした。部屋からエニセ川の流れをみてシャワーのあとの夕食だったが幸せだった。
ホテルの水道が冷たくて肌着などをすすいでいると手がちぎれるくらい冷たいのは何故だろう。外は恐らく30度ぐらいの暑さなのにである。だからトマト、キュウリもすぐ冷えて美味しい。
夕食後8時頃からすぐ下のエニセ川の堤防を散歩した。イルクーツクの夜と同じように若者たちがいっぱい堤防ぞいに語らいと愛をいとなみにあつまっている。まだ8時は太陽が若者にとっては夜なのである。
この堤防は数百メーターも続いていてイルクーツクよりも大きいしテントの店がずっと並んでいる。その2割ぐらいのテントがコカコーラの看板が表示されているのだから、アメリカもかっての敵対国を商売の場所として征服しかけている感じだ。
まだ太陽がある9時にベッドにはいる。一日の観光の限度は5時間までだから、これでも疲れている感じ。

若者に灼熱の太陽下夜となり    クラスヤノスクは10時になるまで太陽だが若者にはもう夜だ。

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by akinishi1122 | 2009-07-31 16:42 | 旅行 | Comments(0)

シベリヤ鉄道の旅(12)

シベリヤ鉄道の旅(12)7月27日 イルクーツクを発つ
朝から一応チケットを調べてみようと、列車のモスクワまでの確認、そしてクラスヤノスク、ノボシビルスク、モスクワまでの列車やそれぞれのホテルの予約のチケットを点検したら間違いなく確認できたが、飛行機のモスクワ・チューリヒ、そして帰国のローマから日本への航空券がない。だから慌てた。すぐ理香に電話いれて「航空券が無いのだがどうなっているのか、旅行会社に聞いてくれ」と頼んだ。9時過ぎたばかりだった。「すぐ尋ねてみる」と心配してくれている。旅行会社は10時からだから、それまでもう一度大事にしている現金や、カード、パスポートを入れているポセットを探してみた。すると出てきた。あった!そういえば、列車の旅行中の航空券は必要ないから、肌身につける一番大事なポセットにしまっていたこと、ころっと忘れていたのである。冷静に考えると旅行会社が最も大事な航空券を忘れるはずがないのだが、こんなのが僕の旅のいつでも起こる忘れもののクセである。保管場所を忘れ大騒ぎするのがいつものパターンだがその瞬間はパニックになる。老化とは思いたくないが、それも多少は認めなければならない。残念だがしかたない。
理香に電話いれたが伝わらないから家に入れた「あったからすぐ理香に伝えてくれ」と言ったら「よかったけど、またかいな、しっかりしてや」と佳子もあきれた様子だ。こんなことを国際電話でするのだからあきれることも無理はないというものだ。
そんなわけで旅行会社に電話しなくて済んで、恥をかかずに済んだ。
奈良の和恵さん(小学の先生)からメールがつく。(今年の夏はオーストラリヤに行くが、私にとってはシベリヤ旅行は最終目的の地です)とある。彼女はオクスフォード時代の知人で旅が共通の趣味だから、僕の旅へのすぐ反応してくれて嬉しい。
俳句の淑子さんからもきた。(シベリヤですか日本でのブログは時々見せてもらっています、いい句がたくさんありましたよ。シベリヤからの句も楽しみにしています、明日が句会です、皆さんもきっと期待し話題になると思いますよ)とあったので

レーニンとキリストを拝し旅の夏   レーニンもキリストもここでは共存している
報徳の夏早々に終わりけり   今年はベスト16で本日4;5で関学に負けて散った
  
昨日の句を送信しておいた。
このホテルのインターネットの料金はかなり高いような気がする。昨日は2時間で2000円だし今日は29分で700円ほどだ。旅行者を相手だからかもしれない。だが手紙で1週間もかかることを思えばしかたないかもしれない。
高校野球の昨日の結果報徳学園4;5関学で負けてしまった。本年はベスト16止まりで残念だ。関西学院の広岡監督は10年ぐらい前まで報徳の監督をしていて、僕も知っていて報徳をひきいて甲子園にもいったひとで、報徳には闘志を燃やしていたのかもしれない。
3時半にタクシーが迎えに来るから、あまり遠いところにいかず河の辺を3時間ほどある、く。
イルクーツクは江戸時代に日本漁民が漂流し、大黒屋光太夫の一行が
帰国を許しを受けるために、サンク・ペテッルブルぐの王の所に向かう途中しばらく滞在したとぃう。そして新蔵と庄蔵という人はここで洗礼をうけここに留まったらしい。また明治時代に政治家のエノモト武揚という人もここににきたという。
列車は16時20分発1等の二人部屋で、40代の女性と一緒だが、この人は美人で愛想はよいが、英語が全くできないから話ができにくいことと、部屋にいる間中パソコンで沢山の数字の入った表に数字を打ちこむ作業をし続けていてあまり話すチャンスもない。クラスヤノスクまで一緒でそこからモスクワまで飛行機らしい。
学者みたいな感じだが僕が9時ごろ眠りについたがまだパソコンの作業を続けていた。

奈良のひと究極のシベリヤと夏便り  和恵さんが憧れのシベリヤは私の究極の旅先ですと便りがくる
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by akinishi1122 | 2009-07-31 16:37 | 旅行 | Comments(0)

シベリヤ鉄道の旅(11)

シベリヤ鉄道の旅(11)7月26日イルクーツクの河辺を歩く
今日は日曜日であるが、朝からホテルの前の河辺の公園を清掃の人々が早くから草刈りをしている。明らかに女性の体つきだが同じ作業服姿で作業したあとのトラックに乗り込む姿がやはり男性と違いで高い荷台に乗りこむのに苦労している。
土井先生からメールがきていた。シベリヤと聞けば寒いようにおもうが、今はどんな気候でしょうか。この前天草の病院に見学に行ってきました、天草の海は奇麗ですね。そして過疎でありながら病院経営を成功させているのに感心しました。とあった。やはり僕が天草であることの縁で僕のことも思い出してくださったのであろう。
午後からレーニン像のある公園まで歩いていった。10分ほどで行けるしメインのレーニン通りもその道である。
そこからトロリーバスに乗る、トロリーだと必ず元に戻るだろうからと乗ってみたらなるほど終点らしいところからUターンしてくれた。だからそのまま乗り続けて車庫まで一周してみた。その終点は、大きな公園になっていた、議事堂や大学、国立美術館などがあり、その奥に大きな教会と古い教会が3ツ建っている、その一番大きな、新しいのは明らかにソ連の崩壊後建築された新しいのに違いない。バカヤプレーニユ寺院というのが新しいし規模も大きい。

レーニンとキリストを拝し夏来たる  記帳簿に記帳してきた
報徳の夏早々に終わりけり      今年は今日関学5;4報徳でベスト16で散る

古い方が案内書にスバスカヤ教会と出ているが古びていてあまり手入れされていないが、結構人が礼拝にはきている。スターリンが宗教を弾圧したが人々の心まで変えることはできなかったことが、この礼拝に来ている人々の様子でわかる。孫のような小さい4~5歳ぐらいの子供がちゃんと十字架をきり、おばあちゃんと同じように礼拝をしているのは子や孫に復活なのか受け継ぎなのか人々の心に定着しつつあるように見える。
マルクスの「宗教はアヘンだ」と言った部分をスターリンがそれだけ強調し自分の権力を確立するための教条的強制したのだと思う。
戦前の日本でわれわれも違った意味で天皇を本当に神と思わされていたし、金正日なども同じように独裁をやったのはやはり特定の思想を権力が利用する道具に使われることが如何に恐いか、そして民衆は心の底では真実を見抜いていて、時代が変わるのをじっと我慢して待っていたのだなと、今日の礼拝の姿をみて感じたものだ。
この教会のすぐ裏がアンカラ川といい、バイカル湖からの水量だからすごい量である、そして水が綺麗だ。水色と普通言うがこの水が水色に相応しいと思う。僕など子供の頃漁師さんにつれてもらって、島原と天草の海峡の汐の流れの早い時に見られるあの水の色がこの色にもっとも似ている。岸から相当離れた水の底の石なども見える。そして苔などが見えないくらい流れが早い。やはり湖が大きれば、たくさんの違った現象がみれるのでうれしい。岸から観る眺めも美しい。自分で探してきたわけでなかったからよけいに感動すぅるものだ。あとで地図をみたらホテルからそんなに遠くないところだし、全体としてもそんなに大きな街ではないかもしれない。
教会と議事堂などのすぐ裏に永遠の火が燃えているがこれはやはり広島のあの火とおなじように永遠の平和をねがってのことだろう。どこの国でも国民は平和を願うのにどうして戦争をし民衆が、国が決めた戦争にかりだせかりだされ、命を失うのか、この人々の顔を見ているとかって日本もこの人々の祖先の方々と敵対したのだなと思い、寂しくなる。
夕飯は近くの店で昨日食べたと同じの焼き飯があったので買った。ここの郷土料理かもしれないし、僕にも違和感がない。ビールはハイネッケンにした。地元のビールより3割ほど高いし日本との値段の違いがない。
食事が済んで堤防ぞいに夜の散歩にでたが8時だというのにまだ賑やかだ。夜という表現にはふさわしくない。メインはシベリヤ鉄道の計画をしたアレクサンドルⅢ世像のある広場である。革命前だから国王の発案だがやはり現代にもたたえられている。
この広場に60歳以上とみられる婦人が普段着のままで、30人ばかりでコーラスをしている。日本で、しかも野外で60歳以上の婦人たちがコーラスということが想像できるだろうか。ロシヤにはこんなコーラスが自然のようにみえるから不思議だ。こんな風景はウラン・ウテの街でもみられたから風土であろうか。アコーデオンのようなバーヤン?を弾いている人は酒を飲んで赤ら顔、表情たっぷりで、自分もうきうきして楽しそうだ。
北国の冬が長いので冬は室内で唄い、いま太陽を全身で受け止めて発散してるのだろう。日本でも民謡が盛んなのは秋田など東北が多いのはやはり共通した風土からかもしれない。若者はたくさんのカップルが、湖畔でベンチで愛しあう風景がいっぱいである。
今日は日曜だからかもしれない。カメラをむけると二人でよろこんでポーズもしてくれるほど和やかな雰囲気である。
男性だけのグループなどはビールの立ち飲みで足元はふらふらしながら歩いているが危険は感じられない。
10時になってやっと日が落ちかけた。ホテルのまえの森で若い女性が棒の先に火をつけて長いあいだ舞をしていたのを見てから帰る。
今日はパソコンが途中で動かなくなり打てない。電源も切れないままで寝た、気になる。

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by akinishi1122 | 2009-07-31 16:33 | 旅行 | Comments(0)

シベリヤ鉄道イルクーツクへ向かう

(9)シベリヤ鉄道の旅(9)7月24日イルクーツクへ向かう

イリナ嬢が9時50分にホテルに迎えに来てくれた。運転手と助手もいれて3人である。イルクーツクへの出発は10時45分だが運転手が10号車の座席まで荷物を運んでくれる。列車には既に母娘ずれが乗ってきていて、僕が3人目である。
イリナ達は僕が座席に着くのを見届けてから去っていった。ウランン・ウテの街は彼女の親切があったから、あと後までも印象に残るであろう。モンゴルのウランバートルとすぐ近いらしいから、日本人の顔に似た人が多いから、ひょっとしたら、日本語が通じるのではないかと錯覚すら覚えるくらいの人たちが駅にも多かった。
イリナには日本に来る機会があれば、是非連絡しなさい、関西は僕が案内するからと言っておいた。
座席の親子には先ず娘に土産の扇子をプレゼントし仲良くなるきっかけを作った。すると母親も僕にお菓子を食べるように勧めたり、お茶を飲むためのお湯を取ってきたりしてくれた。そして自分の持っている弁当を食べるように勧めてくれる。
あまりお腹は空いてなかったが、好意をうけることにして親しみを表現することにした。彼女は全然英語は喋れないが好感のもてる人で、先ず娘さんの歳を聞くことから始めた。これは指で表現できるからすぐ解ってくれ、9歳らしい。
僕にもこの娘ぐらいの孫が2人いることも告げ、彼女の夫が航空隊のパイロットで32歳というから、彼女もほぼ同じくらいであろう。娘が上の座席で絵を描いていたのを覗いたら大変上手い。それを写真に撮らせてもらったら、僕にあげるという。そしてあと2枚も書いてくれた。
娘は新聞にも掲載されたことがあるとお母さんが新聞を示して教えてくれた。娘は「メダルを5つもらっている」と自分の胸に掲げてあるメダルの絵もかいてくれた。「パパも3ツのメダルをもらっている」とも説明してくれた。そんな話を聞いているお母さんも誇りを感じている様子がわかる。ふくよかな顔をしたロシヤ美人にだんだん見えてくる。
弁当のお礼に僕の持ってきたビールをプレゼントしたりしてすっかりうちとけた部屋になった。車窓の景色がバイカル湖にかわったりしたら、そのたびに僕にロシヤ語で説明らしいこともしてくれる。僕もロシヤ語の「カチユーシャ」をおぼろげ
ながらのロシヤ語で歌って、その歌詞が間違っていないか歌ってみたら、娘に歌わせてくれた。間違いまでの訂正もなかった。それで「モスクワ郊外の夕べ」をこれも言語で歌ってみたらお母さんも小さい声で一緒に歌ってくれた。僕の歌詞には自信がないがうちとけるのに役立ったようだ。娘には日本のジャンケンの遊びを教えて遊んだ。
娘の名前はアーニヤ、お母さんはイヤナというらしい。だから日本語のカタカナと即席の漢字でアーニヤを(阿丹野)とお母さんのイヤナをやはり(伊野奈)と書いてやった。喜んでお母さんが読んでいる本の表紙の裏に書いてくれというので漢字を書いてやった。こんな調子でウラン・ウデからイルクーツクまでの車内の時間も退屈しなくて過ごすだけでなく、なんか離れがたくなってきた。お母さんが言うには、アーニヤが別れるのに淋しがっている。と目の下に涙の落ちるような仕草をしてくれた。アーニヤが別れる前に無口になったので、別れる時にアーニヤと最後のジャンケンをして負けたので、彼女の手を掲げてやって元気になってもらうようにした。お母さんは僕のリックを出口まで運んでくれた。お母さんも30分ぐらい前になったら無口になり別れを惜しんでくれているようだ。アーニヤは出口まで送ってくれた。僕も外から出発まで彼女らの窓に手を振って別れを告げた。アーニヤはきっと絵描を趣味になるだろう。彼女がそのうちに日本に遊びにきてくれたらいいなと思い文通でもできたら楽しいだろうと思う。お母さんが読んでいる本に住所を書いてきた。イルクーツクに着くまえの2時間ぐらい前からバイカル湖が木々の間から見えだした。これは湖などとは到底想像できない大きさで向こうの岸など全然見えないのだ。さすが世界一の湖である。岸辺では泳いでいる人がいる。波も少々あるようで海とかわらない。紀節風がくると波が5mの高さもあるというのだから海である。ただ塩分がないだけだが、海の干満などはまさかあるまいと思うが明日でも聞いてみたいものだ。
列車では僕の小さなゴミを捨てる場所を探していたら、車掌さんが便器の中に入れて流しなさいという。日本でも昔はそんなことがあったが、びっくりした。
弁当は食堂に行く必要がなく、人数分水のボトルと一緒に持ってきてくれる。僕と親子との種類が違うのは前からのっている人と同じのが重ならないように配慮してのことだろう。
こんな話を列車の中から佳子に電話して知らせたら喜んでくれている。今日はみんなで四国の四万十川に行く予定だったがきあらちゃんが昨日のピアノ発表から熱を出しているからキャンセルにしたらしい。それがいいと思う。「良い人にめぐりあえて良かったね」と言ってくれた。
6時に半イルクーツクに着いたら、ホテルからの迎えの青年がきてくれていた。ホテルから家に電話したら、理香がでて、旅程表で追っているから順調にいってるようで安心しているとのこと、また今日ホテルから日記が送信できたから開くようにと伝えた。ここに3泊することも知っていた。昨夜信顕が来てテレビ電話(スカイプ)の使い方を説明してくれたらしいが、まだ使用するだけのこちらの店がみつからないので実現がいつからになるかだ。8時半だったが、日本も同じ時間だという。時差がないみたい。
このホテルでは日本語のできるロシヤ人がいてなんとかいままでの日記が一気に送信できた。
ホテルから散歩に出たらここはバイカル湖につながる船着場の近くのようだ。夜の9時というのにまだ写真が撮れる明るさ。
バイカル湖の水は透き通ってきれい。ここは入り江になっていて眺めがよく川の中に噴水が10mも一斉に交互に発ちあがって人々もここの周辺に多い。10時近くまでたくさん岸辺を楽しんでいる。
ホテルに10時前に帰ったら、なんと日本人の昨日まで列車で一緒だったグループがいるではないか。みんなもびっくりしている。「宮崎サーン」と言って覚えていてくれた。みんな今日は鬚も綺麗にそって見違えるようだ。この前は4日間の列車だったらしいから鬚顔がおおかったから。同じホテルだったとは知らなかった。時間が半日ほど遅れたから会えたらしい。モスクワ時間の読み違えらしかった。皆さんのバスをホテルの前で見送り、まだ写真もとれる明るさだった。。

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by akinishi1122 | 2009-07-26 11:23 | 旅行 | Comments(0)

シベリヤの旅10日


シベリヤ鉄道の旅(10)7月25日
ホテルのパソコン店が9時に開くというので昨夜途中で中止して送信できなかった分をホームページにすべて搭載し、今後はそのブログで見てもらうように添え書きして送信しておいた。
その作業は11時までに終わり、今日はバイカル湖の観光に行くからきりあげる。。このイルクーツクの目的はやはりバイカル湖を観ることであったから、ホテルの案内人が進めてくれた2時間コースの4000Pにした。少々高いとは思ったが、車に乗ったところ120キロで走るのに1時間ちかくも船着場までかかるからどうも変な気がしてくる。だけどもタクシーだと相当な値段になるはずだが仕方がないかと複雑な気持ちになって乗っていた。
出帆は12時30分というから乗船場の前のテントに設置された食堂で焼き飯のような郷土料理とビールで済ます。それにしてもバイカル湖としての観光船にしたらすこし貧弱な船のようで今日の乗客は100人程度だった。それもなんかこの地方の普段着のような服装の人がおおい。岸を離れて沢山の名所などがあるものと期待したが、船着場付近に家があるほかは船から見えるのは山並みばかりである。この湖はほんの一部だけだといえるようだ。琵琶湖の50倍というから湖というより海に来たといった感じだ。世界の淡水の20%がここにあるというのだからすごい。バイカルというのは「豊な海」という意味らしいが、たくさんの魚もとれるようで市場には僕の見たことのない形をしたのがいろいろある。それもそのはずである。海としてつながっていないのだからだ。湖の長さは600キロというから韓国と九州との間よりも遠いのだからまさに海である。また深さも1600mぐらいあるところもあり、バイカルアザラシもいるらしいがほんの1時間ぐらいの観光で全体像がつかめるはずもなかった。
だから僕の期待というかイメージからはるかに違がった観光であった。
海は波もあり、昨日と違ってくもっていて湖上は少し寒い感じ。。
3時にホテルにかえり近くの繁華街を散歩したり市場などの賑いにはいりウラン・ウテで食べた豚まんのようなものを買ってみたが、やはり日本の豚まんがの方が美味しい。
夕方から雨模要になったので引き返す。
途中で道路に日本で昔あった手で押すポンプで水をくみ上げ、容器にもって帰る婦人をみた。まだ地下水をつかっている生活もしているようだ。組み座下持ってかえっている人がいたが、地下水をまだ使っているようである。その近くの木造の古くからのアパートがありこれを使っているようだ。
3時にホテルに帰ってたら、日本の旅行社から電話があり、旅は順調にいっていまdすか、何か困ったことはありませんか?との問い合わせがあった。出発のときすこしもたついていたから、どうなることかとは思わないでもなかったが、今のところすべて順調で、さすが旅行社だなあと感心と感謝していることを告げておいた。また沢山のハプニングがあり列車の中の日本人との交流や一人歩きでの現地の人々の親切で毎日感動の日々だとも告げた。これで安心してくれたと思う。
また僕の泊まったホテルにも追跡の電話も入れてくれ間違いなく出発したかの点検もしてくれ、それぞれの結果を家に連絡もしてくれているらしいのには感謝している。やはり一人旅については旅行社も相当気を使っているなと感心した。
今日はパソコンが字が小さくなり大きさは10・5と表示しているのに0・8くいの表示だから目が疲れ文字が打ちずらく、途中でやめたし、編集もできていないので相当変な文章になっているかもしれない。
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by akinishi1122 | 2009-07-26 11:19 | 旅行 | Comments(0)

ウラン・ウデ市内観光

シベリヤ鉄道の旅(8)7月23日ウラン・ウデ
ウラン・ウデが近くなったところで日本への電話がやっと通じることできた。家は出ないし理香に掛けたらえらい息がせきこんでいる。今出勤の途中で駅の階段らしいからのようだ。5日間も連絡がとれなかったいきさつを説明したが、旅程表を見ていたからそんなに心配はしてなかったが、2日間の日記がブログで読めていたから電波の事情だろうと解釈していたらしい。続いて信顕にも電話いれたら、今後夜8時以後だったら、パソコンにスカイプ(テレビ電話)を接続しておくからと準備しておくとのことだ。佳子にもやっと繋がった。今日はきあらのピアノの発表の日で今車の中だという。きあらは少々熱があるが頑張って発表をすると言ってるらしいが、可哀そうだ。きあらに代わってくれて声を聞かせてもらったから、がんばるように励ましておいたが、元気な声で「頑張るね」といってくれた。今日は由希さんが運転しているらしい。
11時7分にウラン・ウデ駅についた。日本人グループの皆さんが列車から降りて僕一人を見送ってくれた。明日イルクーツクに僕も行くのだがこの人たちは僕と入れ違いにイルクーツクを発つてモスクワに向かうらしいからこれが最後になるから、仲間にいれていただき、明日から完全な一人になるから少しさみしくなる。
みんなも、残念がってくれ、一人旅だから気をつけるように励ましてくれるから、少し胸にこみあげてきた。
列車の7号車にはちゃんと出迎えの女性が僕の名前を表示した紙を掲げてくれていた。
僕は日本人グループと別れの記念写真をとり後ろ髪を引かれる思いで最後の階段から丁寧にお礼の頭を下げて挨拶したら、みんなまだ僕の姿を追ってくれていた。
ホテルまでは10分ほどで着いた。なかなか洒落た建物で高級ホテルとみえる。出迎えのガイドさんにここの観光をするために案内を聞いたら、日本語のガイドだったら1500ルーブルというし英語でよければ私は1000ルーブルでいい、というから彼女にお願いすることにした。
彼女は英語ができるしなかなかの美人だ。小学校の英語の教師をしてるらし。いま3か月の夏休みだから頼まれてガイドをしているという。3時に迎えに来てくれることになった。
ホテルでパソコンができるというから接続を頼んだが二人がかりで接続しようとし、僕の部屋まで来てくれてやってくれるのだが、結局だめだった。
だけどもフロントの係の女性がパソコンの技師までつれて僕の部屋まで30分ぐらいも僕のために接続の工夫をしてくれるのだから、その親切が嬉しい。やはり大都会でないからだろうか。僕ももう5日分の日記を送信してないし電話も通じないしコンピユータもこの5日間開けないでいるからパソコンが使えると言われたときには嬉しかった。でもこんなにまで親切にしてくれるのだから、もうその親切だけで辛抱しようという気持ちになった。いろいろサービスというものはあるが、人の心を読み取ったサービスちというものはそのホテルの値打ちを数倍あげるもものだと思った。このホテルが忘れられないものを与えてはくれると思う。
パソコンはつながらなかったが、ホテルのパソコン部屋ので日本からの通信は開くことができた。東京の井上さんから僕の第1便を見て早速返事が来ていた。「またまたの快挙、私も77歳になってやっと妻君の許しがでそうで宮崎さんのような旅に挑戦してみたい気持ちになっています」とあった。井上さんからは僕こそたくさんの刺激をいただき、ヴェトナムでの事業開始や北京での中小企業の相談センター開設、ハワイでの同友会支部設立など目覚ましい活躍などは僕の生き方のヒントを与えてくれた人なので、大変うれしい便りであった。だがホテルのパソコンでは日本語の返事ができないから残念だ。こんなこともあっかて、ますますパソコンが使える店を探さねばならない気になってくる。
ホテルのレストランで昼食をとる。僕が一番だったが、続々客がきてたちまち満員になる。その客のほとんどがどうやら軍隊か警察のような制服を着ている。女性も肩章をつけていているから、おそらくそうだろう。近くにそんな建物があるようでもないのにどこから来るのだろう。
ホテルのレストランだから高いのかなと思っていたら150p(500円)だった。
ガイドのイリナさんが約束の3時に迎えにきてくれた。出迎えの時と服装もかえ、赤のワンピースにサングラスである。いちだんと美しくみえる。英語は大学で学んだらしい。
歩いて5分もしないところにレーニンの頭部像が見えてきた。これは本に出ていたからここの一番の象徴なのだろう。本当に頭だけで7.7mの高さ、重量が42トン1971年の完成。モスクワで行われた展覧会での国家賞を受けたとのこと、なぜ頭部だけかは諸説があるが、この奇想天外な像には、ウラン・ウデの人々のブリヤート共和国を承認したレーニンに対する畏敬の念がこめられているという。
この一角がウラン・ウデのほぼ中心のようで、レーニン像の前は大きな広場となっていて、100m四方はあるだろうが、今日は床の全面改装の最中である。タイルを張り詰めれているから、完成したら素晴らしい広場になるだろう。名前はソヴエト広場という。
像の背中に議事堂があり、郵便局やオペラ劇場、バレー劇場もある。また古くからの木造の家屋も残っている。僕の関心事はやはりパソコンの使える店だが、見つけてくれたのだが、やはり僕のパソコンに接続できないから、接続の器具を4店ばかり探してまわってくれた。イリナさんがいてくれなければとてもこんなに探すことはできなかっただろう。そして最後の店ではパソコンの技術者を呼んでくれての操作を30分もやってくれたが、なにせ日本語での操作内容の説明だから、僕がそれを英語に翻訳しそれをイリナさんがまたロシヤ語に翻訳するという作業だからなかなかはかどらない。接続の器具も買ったのだがやはりだめだった。
この町はモンゴルのウランバートルへの道と鉄道の交差地だからの活気があるようだ。
そして大分高地にあるようだが、盆地のようでまわりには山が見えない。僕が10年前にエベレストに登った勿論頂上ではなく4600mだが、と言ったらイリナがすごく驚き「そんな年でよく登れましたね、私の父は58歳だが貴方みたいな元気はない、尊敬しますね」といってくれた。案内のお礼にビールを御馳走しようと言ったら、「ウラン・ウデに相応しい店があるから案内しましょう」となり連れてもらったら、モンゴルあたりの遊牧民の家のテントの店である。そこで遊牧民の料理である豚まんのようなのをとってくれた。味も豚まんと同じ感じだ。彼女も飲めるから何回も乾杯をしながらの夕食だった。二人分のビールも含めて270ルーブルだから900円ぐらいである。彼女は奇麗だし朗らかで明るいからこの国がいっぺんに好きになった。モンゴル系の顔だから、日本人とほとんど変わらなく、最初迎えに来てくれたときは「日本人ですか?」と聞いたぐらいである。
ホテルまで送りとどけてくれ、明日の9時50分に迎えに来ますと言ってくれて別れた。
彼女に日本の扇子の土産をプレゼントするつもりだったら、街頭で彼女は僕のプレゼント用にもってきたのと同じようなのを買ってしまった。その扇子がいるくらい昼の日差しは暑い。ふたりとも汗をふきふきの観光だった。
ホテルに入ったがここの日没は9時をまわれねば夜にならないので、少々眠かったが、街にでることにした。いつものように路面電車に乗つた。やはり車掌がいて料金の徴収にくるのだが、ここは8pだった。そしてUターンでの引き返しにも料金は請求がなく結局一周したことになる。中心以外はアパートで個人住宅の1戸建てには気付かなかった。
だけども緑が多いことと、棟と棟との間隔が相当のゆとりをもって建てられているから、、やすらぎがあるようにみえる。
帰りに大分手前で降りたら、やはり道路というのは直線でないから、大分歩かねばならなはめになった。やはり歩き方の原則は乗った地点まで来て降りることをしなければ思わぬ遠まわりになってしまうことの教訓だった。
9時には床についたが外はまで太陽がある。そして帰る時もレーニン像の前の工事の仕事は続いているから、労働時間の厳しい国なのだが何人かの交代でなければ厳しすぎることになる。
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by akinishi1122 | 2009-07-26 11:11 | 旅行 | Comments(0)

siberiya 6

(6)シベリヤ鉄道の旅(6)7月21日ウランウデの列車の旅へ
今日は少し雨模様のようで部屋も風が入ったら少々寒く感じる。朝食を8時に済まし部屋の整理をしたら9時少しまわった。9時45分に迎えの車がくるということだったが9時半にはきてくれた。先日の人とは違い若い兄ちゃんで、まったく英語は通じない。駅に着いたら列車まで荷物を持ってくれるものとばかり思っていたのに、タクシー並で駅前駐車場に降ろしただけだった。やはり若い兄ちゃんは商売気がないか会社の教育がこの前の会社と違うのかどちらだろう。やはりサービス業だからこんな会社はやがて淘汰されるに違いない。
僕の列車の表示は行き先の時差で表示案内らしく発車時刻が3時45分とでている。モスクワ時間である。
あと45分あるが1番ホームに出ていたら日本人らしい人が近づいてきたので話しかけたらモスクワ放送のアナウンサー兼記者だという。僕も50年ぐらい前にモスクワ放送の日本語の岡田嘉子さんの放送を聴いたことがあるなどと話したら、「私の大先輩です、その放送が続いているアナウンサーです。そこのハバロフスク特派員、通訳翻訳員・アナウンサーをしています」とのこと。ハバロフスクは20年前に来て非常に印象深い、その時の空港での職員さんの親切がいまでも忘れられないなどと話したら、名刺いただいた。今回の印象を聞かれたので、20年前との違いなど聞かせてください、「是非インタビューさせてください」と写真もとり、マイクをだし放送本番のように実況が始まった。「今、ハバロフスク駅のホームにいます、ここに宮崎信敏さんという74歳の日本からの一人旅で21日間かけてウラジオストックからモスクワまでの途中だというところで、20年前に来られたことがあり、そのころとの違った印象や、旅の目的などからお伺いしてみます」からはじまり、ウラジオストックとハバロフスクについての印象や、長旅で日本の家族は心配していないか、ロシヤの食事はどうしているのか、モスクワから帰国までのプランなどについて聞かれた。だから昨日パソコン店を探していたら知らない青年が自分の車に乗りなさいといって車でパソコン店まで案内していただいて、ロシヤの人の親切に感激していることなど話した。そんな時間だったのですぐ30分ぐらい過ぎたが、普通発車の30分前に着くのに遅れているのかなと駅に聞きに行ってくれた。すると4番線に変わったという、だったら急がねばならないとその岡田さんが僕の荷物をもって階段を上り走りに走る。そしてホームについたらもう岡田さんにお礼の挨拶する間もなく発車だった。この岡田さんがいなかったら完全に乗り遅れたことになる。今日も奇跡がおきたことになる。
岡田さんは49歳といい、今日はウラジオストックから友人が来るので駅であうためにここにこられていたという。ロシヤにはもう20年いて奥さんはロシヤ人らしい。
そんなことがあって列車にのりこんだ。すると日本人のグループが何人かいた。その中の添乗員らしい人が僕の部屋を探してくれ、部屋にいたロシヤ人に僕を紹介してくれたり、この人がどこまで行くのか聞いてくれたりした。同室のロシヤ人は次の駅で降りることも分かった。僕のチケットを見て「このチケットには食事が2回ついています」とも説明してくれた。僕は旅行社からはそのことを聞いていなかったから大変ありがたかった。そして「私は10号車にいるから困ったことがあったらいつでも言ってください」とも言ってくれた。やはり日本人がいてくれたらほっとする。どうやらグループの添乗員のようだ。しかもロシヤ語がなかなか堪能だから心強い。
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by akinishi1122 | 2009-07-25 09:49 | 旅行 | Comments(0)

siberiya 4

シベリヤ鉄道の旅(4)7月19日ハバロフスク着
8時にハバロフスクに着く。われわれの寝台車はすべてここで降りていった。僕の10号車の出口にはもう迎えの人がきてくれていた。花鬚の紳士である。
ホテルからの送迎バスのようで運転手と二人だった。
駅は大変立派でホームは100mを越しているだろう。そして建物も重厚でき奇麗にて手入れされている。駅前広場には30mぐらい高い像があるが、銅ではなく真っ黒な仕上げで兵士のようだ。噴水もありそこから真っすぐにおおきな道路となっている。15分ほどでホテルに着いた。インツーリストといって11階ぐらいあり、僕の部屋から大聖堂が見え、右側奥にはアムール河が見えてなかなかいい。
ロビーの横には日本料理店があるぐらいだから、相当の日本人が来るホテルらしい。今も30人ぐらいの日本人団体が帰国のために荷物を集めているところだった。
部屋には冷蔵庫にアサヒ、コカコーラなどが冷やされていて、ダブルベッドで綺麗な部屋である。
やはり夜行列車だから汗ばんでいたから久しぶりに浴槽に入り疲れをとることにした。出発の慌ただしさで鬚剃器を持ってきてなかったから3日間の鬚が伸びていたが、ここには備えつけてあったからやはりさっぱりした。
フロントでインターネットができないかと聞いたが、ここではできないらしく、地図でインターネットカフェを教えてくれたが探していけるか心配だ。
市内観光バスは無いかときいてもそれは予約がいるらしく今日は日曜でもう休みだし明日もないというから自分で歩かねばなるまい。
アムール河に出た。向こう岸は見えないくらい広い河である。観光船が出たあとだったが、すこし小さな船が出帆しそうだったので駆け込んで乗った。どうやら地元の巡航船のようで観光客といったら僕だけのようだ。僕としたらこのように土地の生活者の生活に触れてみたかったからちょうどよい。どんどん上流にむけて進むのだが流れも速いので進むのは遅いようだ。水は泥水でちょうどジンバブエのサワリーの水と同じだからワニがでてもおかしくないような気持ちになる。僕の知っている「アムール河」の歌があまりにも美しいメロデイーだからこんなに近くでみると期待はずれの感がしないでもない。
島に着いたら全部の人が下船した。島には桟橋もなく砂浜だが下船のために渡り廊下の小さいのを船からさしだすので降りるのである。川の中にある島といっても一度に50人ぐらい降りるのだから相当な人々が住んでいるのだろう。岸辺には裸の男性が迎えにきていたりしてやはりのんびりしている。残ったのは僕だけだったからこの島との往復だけのようだ。すぐ引き返すのだがこんど乗りこんできた人たちは奇麗な服装の人が多い。明らかに街へでる服装である。すぐ引き返す船であったからよかったものの、僕も無謀なことをしたものだとおかしくなった。これがてんてんとして今日は帰らない船に乗ったとしたらとあとで考えてゾーットした。
船賃は船の中で買うのだが、僕は降りなかっので片道だけでよかった。下船するときチケットを渡す仕組みだからである。船賃は12Pだったからバス並である。帰りは川の流れに乗ってだから行く時の半分ぐらいの時間で帰えれた。
船から眺める大聖堂はイスラム教のモスクのかたちのドームで、屋根がアラビヤンナイトにでてくるあれである。青い屋根、壁は真白それに薄い黄色の縦縞色の模様があり緑の中に御伽の世界を観る思いだ。
この船に乗るとき岸辺で40代の女性が殴りあいの喧嘩しているのをみた。すごい力でボクシングのように顔面を叩き相手は転倒していたが殴られて転倒した方が先に殴りかけていたようで反撃する女性が強いパンチであった。船に急いでいたから最後はどうなったか見ていないが、すごい喧嘩を女性がするものだと驚いた。
市内のバスに乗ったら普通の婦人服を着た車掌が料金の請求にきた。一番前の席に座っていて、乗ってくる人を確かめて立って請求にくるシステムのようだ。金を払う人もあれば定期券を見せる人もある。チケットは首から吊下げたセロテープのように輪になっていて、料金をもらった人にちぎって、少し破って渡す。
初めてみた制度であった。あとで乗った路面電車も同じことで料金をとっている。車掌といっても全部私服である。化粧の派手なひともいるし履物もサンダル履きの人もいた。
バスも路面電車のドライバーもみな私服である。
バスで駅が見えたので降りて構内にはいったら日本人がいたのでどこかみどころを聞こうとおもったら、先方が「あれまた会いましたね」と言ったので新潟空港であったようだった。もう勤めがあるから帰国するらしいか4日間の旅である。駅前のスーパーに入ったら川魚であろう20㌢ぐらいの丸ままのフライ、それと同じぐらいの塩焼き、そしてゆで卵を買ってみた。ちゃんと見てでないとミニューでは分からないことと庶民の食事を体験するためにはこれがいいなと思い買った。夕食のためだ。これだけで250Pだったから800円ぐらいだと思う。
駅前からは路面電車に乗ってみた。終点まで行くとそのまま折り返すと言ったら降りなくていいと言ったが料金は請求された。路面電車はメインの道だから町の輪郭がつかめ、人々の生活ぶりがいろいろ見えてくるものだ。生活実態がみえて親しみがわいてくる。子供ずれや僕のファスナーの閉め忘れなども教えてくれたり、買い物袋の中身までみることができるからいい。だけどもバスにしろ路面電車にしろ車内の汚いのは、この人たちが日本のバスや電車をみたらさぞ感激するだろうなと思えるぐらい手入れされていない。ゴミがあるというわけではないが、錆などや破れているのを修理してないから、事業主のお客サービスという精神が薄いのであろう。
路面電車に乗り途中までいくと賑やかな青空市場が見え、そこに今朝ホテルでみかかた日本女性が二人いたので急遽降りた。彼女らは地図をたよりにここにきたらしい。また次の場所に移動するための電車待ちだったので、僕のアムール川の乗り場も教えてやった。ここで目に着くのは犬をそれぞれの飼い主がつれてきて売るのである。商売人でなく自分の飼い犬が生んだのを売るのだから同じ種類のを何匹かだったり一匹だったりする。だから愛着があるのだろう抱いたり寝かせたりしている。これは自分の犬がだれに育てられるかわかるからよい方法だなと思う。
簡易店舗だから日曜市なのかもしれない。えらい人混みだから一人歩きは危険かもしれないので早くきりあげることにした。ただトマトとキュウリを買い夕食にしたいと思う。帰りはここから真っすぐ行くとホテルの近くに行けると英語のできる女性が教えてくれ、20分ほどのところだといったがなかなか遠い。午後には夏の太陽がでておそらく30度は超えているから汗びっしょりである。バスでもわかればいいのだが何番に乗ればいいのかがわからないので歩くが大変だった。
途中の公園から家に電話いれたら、今日はマンションにきているとのことだった。明日が理香の誕生日なのでマンションで誕生パーテイーをするのであろうか。子供たちの声も聞こえていてやはり賑やかなのが体によいから孫の顔が見えるところはいいことだ。
理香に誕生祝いのメールを打込み、文章を打ちこんでいると同じベンチに変な若者が3人座りにきたから急いでき切り上げたので変な文章の尻切れになってしまった。
帰りの川岸ではビキニ姿の若者がいっぱい甲羅干しをしている。ここのひとたちはこんな赤い水でも慣れているのだろうか。冬が長いから肌の色が白い人々が多いし、なかにはブラジャーを外してそのまま干している娘さんもいる。
大聖堂にも入ってみた。外観はイスラムのモスクだが中はキリストの十字架を背負った絵もあるし旧約聖書の絵の物語の絵もある。そしてひっきりなしに蠟燭に火が灯されている。十字をきって一身に祈るひとびとの姿がある。社会主義革命の後スターリンの時代にこの建物は壊わされて、広場の名前もコムソモールスカヤと改名されていたが、ソ連崩壊後にこの建物も昔のとうりに復元されたという。
宗教というのは政府の政策で簡単に消滅するものでないことの証拠をみることができた。要はどれだけ国民の不安を解決せずして、考えを強制すべきではないということの証明である。
僕が帽子のまま入ったら祈りをしていた婦人が脱ぐように合図された。なのにこの婦人はスカーフを頭からかぶっているのにそれは違うらしい。
ホテルに帰り風呂に入り、さっぱりして買ってきた20センチの魚フライ、同じく20センチの魚の酢のもの、卵、トマト、キュウリなどで夕食にした。ビールは冷蔵庫にアサヒが入っていたから半分ぐらい残すだけのリッチな夕食だった。
疲れたから7時にはベッドにはいった。
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by akinishi1122 | 2009-07-25 09:46 | 旅行 | Comments(0)

siberiya 8

シベリヤ鉄道の旅(8)7月23日ウラン・ウデ
ウラン・ウデが近くなったところで日本への電話がやっと通じることできた。家は出ないし理香に掛けったらえらい息がせきこんでいる。今出勤の途中で駅の階段らしいからのようだ。5日間も連絡がとれなかったいきさつを説明したが、旅程表を見ていたからそんなに心配はしてなかったが、2日間の日記がブログで読めていたから電波の事情だろうと解釈していたらしい。続いて信顕にも電話いれたら、今後夜8時以後だったら、パソコンにスカイプ(テレビ電話)を接続しておくからと準備しておくとのことだ。佳子にもやっと繋がった。今日はきあらのピアノの発表の日で今車の中だという。きあらは少々熱があるが頑張って発表をすると@言ってるらしいが、可哀そうだ。きあらに代わってくれて声を聞かせてもらったからがんばるように励ましておいたが、元気な声で「頑張るね」といってくれた。今日は由希さんが運転しているらしい。
11時7分にウラン・ウデ駅についた。日本人グループの皆さんが列車から降りて僕一人を見送ってくれた。明日イルクーツクに僕も行くのだがこの人たちは僕と入れ違いにイルクーツクを発つてモスクワに向かうらしいからこれが最後になるから、仲間にいれていただき、明日から完全な一人になるから少しさみしくなる。
みんなも、残念がってくれ、一人旅だから気をつけるように励ましてくれるから、少し胸にこみあげてきた。
列車の7号車にはちゃんと出迎えの女性が僕の名前を表示した紙を掲げてくれていた。
僕は日本人グループと別れの記念写真をとり後ろ髪を引かれる思いで最後の階だろうと段から丁寧にお礼の頭を下げて挨拶したら、みんなまだ僕の姿を追ってくれていた。
ホテルまでは10分ほどで着いた。なかなか洒落た建物で高級ホテルとみえる。出迎えのガイドさんにここの観光をするために案内を聞いたら、日本語のガイドだったら1500ルーブルというし英語でよければ私は1000ルーブルでいい、というから彼女にお願いすることにした。
彼女は英語ができるしなかなかの美人だ。小学校の英語の教師を@してるらしい。いま3か月の夏休みだから頼まれてガイドをしているという。3時に迎えに来てくれることになった。
ホテルでパソコンができるというから接続を頼んだが二人がかりで接続しようとし、僕の部屋まで来てくれてやってくれるのだが、結局だめだった。
だけどもフロントの係の女性がパソコンの技師までつれて僕の部屋まで30分ぐらいも僕のために接続の工夫をしてくれるのだから、その親切が嬉しい。やはり大都会でないからだろうか。僕ももう5日分の日記を送信してないし電話も通じないしコンピユータもこの5日間開けないでいるからパソコンが使えると言われたときには嬉しかった。でもかんなにまで親切にしてくれるのだからもうその親切だけで辛抱しようという気持ちに@なった。いろいろサービスというものはあるが、人の心を読み取ったサービスちというものはそのホテルの値打ちを数倍あげるもものだと思った。このホテルが忘れられないものを与えてはくれると思う。
のパソコンはつながらなかったが、ホテルのパソコン部屋ので日本からの通信は開くことができた。東京の井上さんから僕の第1便を見て早速返事が来ていた。「またまたの快挙、私も77歳になってやっと妻君の許しがでそうで宮崎さんのような旅に挑戦してみたい気持ちになっています」とあった。井上さんからは僕こそたくさんの刺激をいただき、ヴェトナムでの事業開始や北京での中小企業の相談センター開設、ハワイでの同友会支部設立など目覚ましい活躍などは僕生き方のヒントを与えてくれた人なので、大変うれしい便りであった。だがホテルのパソコンでは日本語の返事ができないから残念だ。こんなこともあっかてますますパソコンが使える店を探さねばならない気になってくる。
ホテルのレストランで昼食をとる。僕が一番だったが、続々客がきてたちまち満員に
なる。その客のほとんどがどうやら軍隊か警察のような制服を着ている。女性も肩章をつけていているからおそらくそうだろう。近くにそんな建物があるようでもないのにどこから来るのだろう。
ホテルのレストランだから高いのかなと思っていたら150p(500円)dった。
ガイドのイリナさんが約束の3時に迎えにきてくれた。出迎えの時と服装も変赤のワンピースにサングラスである。いちだんと美しくみえる。英語は大学で学んだらしい。
歩いて5分もしないところにレーニンの頭部像が見えてきた。これは本に出ていたからここの一番の象徴なのだろう。本当に頭だけで7.7mの高さ、重量が42トン1971年の完成。モスクワで行われた展覧会での国家賞を受けたとのこと、なぜ頭部だけかは諸説があるが、この奇想天外な像には、ウラン・ウデの人々のブリヤート共和国を承認したレーニンに対する畏敬の念がこめられているという。
この一角がウラン・ウデのほぼ中心のようで、レーニン像の前は大きな広場となっていて、100m四方はあるだろうが、今日は床の全面改装の最中である。タイルを張り詰めれているから、完成したら素晴らしい広場になるだろう。名前はソヴエト広場という。
像の背中に議事堂があり、郵便局やオペラ劇場、バレー劇場もある。また古くからの木造の家屋も残っている。僕の関心事はやはりパソコンの使える店だが、見つけてくれたのだが、やはり僕のパソコンに接続できないから、接続の器具を4店ばかり探してまわってくれた。イリナさんがいてくれなければとてもこんなに探すことはできなかっただろう。そして最後の店ではパソコンの技術者を呼んでくれての操作を30分もやってくれたが、なにせ日本語での操作内容の説明だから、僕がそれを英語に翻訳しそれをイリナさんがまたロシヤ語に翻訳するという作業だからなかなかはかどらない。接続の器具も買ったのだがやはりだめだった。
この町はモンゴルのウランバートルへの道と鉄道の交差地だからの活気があるようだ。
そして大分高地にあるようだが、盆地のようでまわりには山が見えない。僕が10年前にエベレストに登った勿論頂上ではなく4600mだが、言ったらイリナがすごく驚き「そんな年でよく登れましたね、私の父は58歳だが貴方みたいな元気はない、尊敬しますね」といってくれた。案内のお礼にビールを御馳走しようと言ったら、「ウラン・ウデに相応しい店があるから案内しましょう」となり連れてもらったら、モンゴルあたりの遊牧民の家のテントの店である。そこで遊牧民の料理である豚まんのようなのをとってくれた。味も豚まんと同じ感じだ。彼女も飲めるから何回も乾杯をしながらの夕食だった。二人分のビールも含めて270ルーブルだから900円ぐらいである。彼女は奇麗だし朗らかで明るいからこの国がいっぺんに好きになった。モンゴル系の顔だから、日本人とほとんど変わらなく、最初迎えに来てくれたと気は「日本人ですか?」と聞いたぐらいである。
ホテルまで送りとどけてくれ、明日の9時50分に迎えに来ますと言ってくれて別れた。
彼女に日本の扇子の土産をプレゼントするつもりだったら、街頭で彼女は僕のプレゼント用にもってきたのと同じようなのを買ってしまった。その扇子がいるくらい昼の日差しは暑い。ふたりとも汗をふきふきの観光だった。
ホテルに入ったがこここの日没は9時をまわれねば夜にならないので、少々眠かったが、街にでることにした。いつものように路面電車に乗つた。やはり車掌がいて料金の徴収にくるのだが、ここは8pだった。そしてUターンでの引き返しにも料金は請求がなく結局一周したことになる。中心以外はアパートで個人住宅の1戸建てには気付かなかった。
だけども緑が多いことと、棟と棟との間隔が相当のゆとりをもって建てられているから、、やすらぎがあるようにみえる。
帰りに大分手前で降りたら、やはり道路というのは直線でないから、大分歩かねばならなはめになった。やはり歩き方の原則は乗った地点まで来て降りることをしなかれば思わぬ遠まわりになってしまうことの教訓だった。
9時には床についたが外はまで太陽がある。そして帰る時もレーニン像の前の工事の仕事は続いているから、労働時間の厳しい国なのだが何人かの交代でなければ厳しすぎることになる。
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by akinishi1122 | 2009-07-25 09:38 | 旅行 | Comments(0)