カテゴリ:社内新聞( 76 )

囲碁の格言

第5775号 日々新聞  2016年8月5日(金)
人生に役立つ囲碁の格言
相手の急所は味方の急所・・・相手に打たれて困る所に着手すると、好手になる可能性あり
石音の反対に打て・・・相手の着手地点に追随して打つと相手の価値以下の手を打つ可能性あり
利かしと悪手は紙一重・・良い手のようにみえるが場合によっては悪手になることもあり
解らない時は手をぬけ・・・着手が解らないときは手をぬき、状況が変わったときに又考える
岡目八目…当事者はなかなか見えないが観戦者は全体がながめられ、よくわかることが多い
攻めは分断にあり・・・切れるところは切っておくと効果がでることがある
兄弟喧嘩は身の破滅・・・兄弟喧嘩は共倒れになるもの
大場より急場・・・布石の段階でお互いの根拠にかかわる地点は最優先で
強い石、厚い石に近づくな・・・自己の石、相手の石、いずれにも強い石には近づくな

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by akinishi1122 | 2016-08-05 08:37 | 社内新聞 | Comments(0)

千代の富士死去

第5774号 日々新聞  2016年8月4日(木)
最強の千代の富士死去
度重なる不幸〜国民栄誉賞受賞[編集]
しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからで、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色が青から「黒」に変わり、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみ一人横綱となる(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)も、1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。
1987年前半はわずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対大乃国戦)が奇しくも昭和最後の取組となる。53連勝は昭和以降の記録としては2014年1月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位。
1989年1月場所も優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れて緊張感がなくなったか雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左肩にテーピングを巻いて登場、右手のみで賜杯を手にした[13]。
1989年6月には、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後僅か4か月足らずで亡くす不幸に見舞われてしまう。千代の富士の家族や自身も精神的なショックが大きく、師匠の九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われる程だったという。しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦では、奇しくも同部屋の弟弟子だった横綱北勝海を下して、奇跡の優勝を果たした。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談のうえで辞退している[14]。

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by akinishi1122 | 2016-08-04 08:03 | 社内新聞 | Comments(0)

社内新聞



第5771号 日々新聞  2016年8月1日(月)
相模原障害者施設殺傷事件について
  全盲・全ろうの東京大学先端研教授  福島 智さんのことば

身の毛がよだつというのは、こうゆう感情のことを言うのでしょう。
それと同時に、まるでドレッシングと間違えてサラダに食用洗剤をかけてしまったときのような、そんな吐き気を伴う違和感を感じます。
 今回の犯行は、通常の殺人事件の範疇を超える「二重の殺人」ではないでしょうか。一つは被害者の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人の尊厳を冒涜し、生存の価値自体を否定するという意味での「実存的殺人」です。
 しかし洗剤をサラダにかけたような、この何とも言えない違和感はどこから来るのか。それは容疑者と私たちがまったく無関係だといいきれないと、わたしたち自身がどこかで感じてしまっているからではないかと思います。
 容疑者は衆議院議長への手紙で、障害者を殺す理由として、「世界経済の活性化」をあげました。つまり障害者は、経済の活性化にとってマイナスだという主張です。
 こうした考えは、あからさまには語らなくても、私たちの社会にもあるのではないでしょうか。
労働生産性と言う経済的価値で、人間の優劣がはかられてしまう。そんな社会にあっては、重度障害者の生存はおぼつきません。
 しかしほんとうは、障害の無い人たちも、こうした社会を生きずらく、不安に感じているのではないでしょうか。何故なら誰であれ、労働能力が低いと評価されれば、社会から切り捨てられてしまうからです。
 相模原事件は、わたしたち一人ひとりに重い問いを突き付けています。







第5772号 日々新聞  2016年8月2日(火)

想いを継ぎ、誇りを持って働ける会社づくりを  萩野塗装(株)常務取締役 萩野 充弘氏(石川)
萩野塗装(株)常務取締役 萩野 充弘氏(石川)
萩野塗装(株)常務取締役 萩野 充弘氏(石川)
「塗装業界の地位向上」「明日も行きたくなる会社」「笑顔のあふれる職場」。この三つの柱を会社の理念とし、実践している常務の萩野充弘氏(萩野塗装(株)、石川同友会会員)。学生時代は空手に熱中し、県内優勝など優秀な成績を収め、自身の価値観を追求しました。卒業の2カ月前、父の経営する会社を自分で担う決意をして、卒業後は名古屋の塗装会社で五年間修業した後、入社しました。
誇りを持って働くことのできる会社づくり
「建設業界の商品は人が作っていくもの。人をないがしろにしていたら商品がなくなってしまう。人を大切にすることが商品を育てる」そんな父の想いを継ぐためにも、人が来てくれることを当り前と思わず、社員の心を知り、誇りを持って働くことのできる会社づくりに取り組みはじめました。
 誇りを持ってもらうためには、まずは実績が必要です。地域に信頼していただくためにも丁寧かつ誠実な仕事を心がけ、フェイスブックやウェブサイトなどを最大限効果的に利用し発信を続けながら、着実に大きな仕事を獲得してきました。それにより、社員に「町は自分たちがつくっている」という自信と誇りが浸透し始めました。
増やした「人を想う時間」
 さらに楽しい会社づくりを実現するために、「人を想う時間」を増やしました。現場に直行するのではなく必ず会社に集まり、社員の顔色を見て、現場での注意事項や思いの共有、時には本などで見つけた成長できる話を共有しながら、思いを一つにしていく朝礼を実施しています。それにより、自分たちがどこに向かうべきなのかを確認しあえるようになりました。そして、帰社したら「萩野道場」(写真)で一汗流し交流します。健康管理も社員への心遣いです。数種類のマシーンを置き、シャワールームも完備。仕事の話だけでなく、プライベートな話も飛び交うようになりました。
北信越で一番
 「小松で一番小さい塗装屋から、石川県一番の塗装屋になりました。空手では北信越二位だったけど、仕事では北信越で一番経営状態がよく、仲のいい会社をつくってみせます」と、窮屈そうに筋肉を隠したスーツで話してくれました。お茶目で底抜けに明るい萩野氏の笑顔を見ると、同社で働く社員の幸せな顔が目に浮かびます。

第5773号 日々新聞  2016年8月3日(水)
一人の喜び、本当の喜びなし  脇坂勝幸
人間はどんな人でも一人で生きていくことは出来ないものですね。熱さ寒さに身をまもるための家や衣類、食糧、水など全てが自分だけでは調達できないものばかりです。ですから、自分に出来ないことは誰かのお世話にならなければ、ならないのです。人間は集団をつくることでそれぞれの特徴を生かして協力することで人々の知恵と力を頼り現在まで発展してきたのです。
何ひとつとっても、自分だけで生きていくことはできないのですが、目先の事では自分だけで生きてきたように思うことがしばしばあるのです。そして、一人の喜びや幸せだけを追い求めたくなるものです。ですから、しばしばわがままと言う者が生まれ他人のこと、集団のことを忘れて自分の目的だけに走ることがしばしば起るものですね。これはだれでも起きる気持ちなのですが、皆なが同じように自分だけの喜びを求め続けたら集団の生活はなりたたなくなり、殺伐とした社会になるものです。
18世紀ごろまでは世界は強い者の王が絶対の権力を持ち、人民を王の自由意思で権力によって管理統制した社会が続いてきましたが、1789年のフランス革命により独裁を許さない「自由・平等・博愛」という考えが生まれ、人々は生まれながらにして、みんな平等でなければならない、そして自由であり、人々は助けあいで生きることで人間は幸せが生まれるのだ。という考えがヨーロッパを中心に生まれたのです。
人々は協力することで自分の幸せも創られて行くのだという考えが世界中にひろまり、しあわせはみんなの協力で自分にももたらされるのだという現代の世界の考えにたどりつけたのですね。
そのために制度、規則(法律)をつくり、みんながより幸せになるためのルールによって、お互いが全体としてより幸せになるようにしようと約束をしたという歴史をたどってきたのです。
一人は皆のために、皆は一人のために。という考えはこのように人類がかんがえだした制度なのですね。自分の幸せは社会、集団の中でつくられていくという崇高な考えを実現していくなかでつくられていくということなのです。

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by akinishi1122 | 2016-08-02 08:59 | 社内新聞 | Comments(0)

社内新聞7月

第5768号 日々新聞  2016年7月27(水)
前向きな言葉を使う(3) 澤穂希(前ナデシコジャパン)
決断して思い通りの結果にならなくても、ネガチブな言葉を吐かないように心掛けているんです。
人に相談するときも「こうなったらどうしよう、嫌だな」愚痴を極力避けています。代わりに「こうなったらいいな」とか「こうしたいんだけど、どうしたらいい?」と前向きな言葉を使うようにしています。ネガチブな事を云うと、気持ちもそっちの方向に行ってしまうような気がするんです。
 そしてうまくいかないときこそ、逃げないことが大切だと思います。そのときは辛いけど、直視して、どうするか打開策を考える。「もうダメ」と思ったときが、一番成長できるといつも自分に言い聞かせています。
 2011年のドイツワールドカップで優勝した後、原因不明のめまいに襲われたことがありました。国民栄誉賞がパロンドールという名誉ある賞を頂いて最高の一年でしたが、あまりの環境の変化についていけず、身体が悲鳴をあげたんだと思います。
自分でも驚きましたが、このときも、何時かは治ると信じていました。症状がおさまり、元通りに戻ったときは、普通に歩いたり、走ったり、ボールを蹴ったりできることを本当にありがたく思いました。サッカーをやる楽しさやワクワク感がこみあげてきて、ああ、これを感じるために病気があるんだと思ったほどでした。
決断すると次が見える
25年間、37歳まで第一線でサッカーをやってきましたが、いいときばかりではありませんでした。でも今振り返って思うのは、たとえ失敗することがあったとしても、自分の積み重ねが今の私を作っているということです。
 決断するときは、それ相応にリスクを覚悟して思い切る。決断してみて、思ってもみない事態がおきたり、後悔したり、落ち込んだりすることはありましたが、其れも含めて自分の人生だと思っています。
一番こわいのは、失敗をおそれて何も決断しないことです。決めなければ何も始まりません。行動するから、次の選択肢が見えてきます。




第5769号 日々新聞  2016年7月28日(木)
マイナンバー(共通番号)制の心得
(第1条)「マイナンバー(個人番号)」は私たちの番号ではありません。
「マイナンバー」というと「私の番号」で、私の為にある番号と考えますが、そうではありません。法律には「マイナナンバー法」の正式名称は「行政手続きにおける特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」(以下「番号法」)です。
 宇賀克也東大教授は「番号法の核心は個人番号の付番と個人番号をキーとした関係機関間の情報共有にある」としています。わたしたち一人ひとりのために在るのではありません。「マイナンバー(共通番号)制度」は国民一人一人に12桁の個人番号をつけ、この個人番号を利用して行政機関等が私たちの税や社会保障の情報を共有し協同で管理する制度です。

(第2条)「マイナンバー(個人番号)」は大事に保管し持ち歩かないこと。
わたしたち一人一人に「個人番号・氏名・住所・生年月日・性別の5項目の書かれた「通知カード」(紙製)が送られてきます。「通知カード」は大変大事ナカードです。「実印」と同じと考えて大切に保管してください。
財布に入れて持ち歩くことはしないようにしましょう。
特に子供さんや高齢者の方には持たせないように「しましょう。「マイナンバー詐欺」に注意しましょう。


第5770号 日々新聞  2016年7月29日(金)
マイナンバー(共通番号)制の心得(2)
(第3条)「個人番号カード」(プラスチック製)は申込みしない。
通知カードと一緒に「個人番号カード」の申請書が入っています。申請は任意です。写真をつけて申請すると、「個人番号カード」がもらえます。表に「写真・氏名・住所・生年月日・性別」が、裏面に「個人番号」と「ICチップ」は185バイトで週刊誌1冊分の文字がはいります。
 「個人番号カード」の所有権は市町村にあり、私達への貸与となります。大人は10年、子どもは5年たったら市町村に返納することになります。身分証明につかえると言われますが、「通知カード」と同じ大変なカードですので持ちあるかないように「ICチップ」に申請しないほうが安全といえます。
 カードがなくなっても、必要なときに個人番号つきの「住民票」をあげれば私の「個人番号」は分かります。カードを持つ必要は無いといえます。

第4条 「マイナンバー(個人番号)は見せない、書かない、教えない、聞かない」
 私たち一人一人は個人番号を受け入れる義務や責任は有りません。
12桁の個人番号は、税や社会保障の情報につながる「共通番号」です。「番号法」の第15条は「何人も他人に対して、個人番号の提供を求めてはならない」とい定めています。個人番号は他人に対して「見せない、書かない、教えない」番号であることが、法律の大原則です。
 例外として、税、社会保障の関係で、税務署・職安・福祉事務所等の行政機関等への申告書・申請書等に「個人番号」を書くことになります。
個人番号を書かなくても行政機関等は申告書等については受付します。

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by akinishi1122 | 2016-08-02 08:55 | 社内新聞 | Comments(0)

7月の社内新聞

第5755号 日々新聞  2016年7月7日(木)
もう一人の自分を創る  舞の海秀平
大学を卒業して、大相撲の世界にはいろうとした私は、いきなり大きくつまずきました。相撲協会が定める身長に足りなかったのです。当時の大相撲では身長173センチ以上であることが入門の条件のひとつでしたが、私の身長は169センチ、4センチ足りないため新弟子検査に落とされてしまいました。このときは精神的にどん底でした。プロの世界大相撲でどこまでできるか。身体の小さい私がどこまで通用するか、どこまで番付を上げられるか。小学の時から相撲を続けてきた私はそのことを自分自身が知りたいと強く思っていました。
挑戦したい、絶対諦めたくないと思った私は、あの手この手を尽くして相撲界に入門する方法を考えました。
身長を伸ばすため鉄棒にぶら下がり友達に足を引っ張ってもらったり、バットで頭を友人に叩いてもらったり・・・背を伸ばしてくれるという評判の人物を熊本まで訪ねたこともあります。身長は一ミリたりとも伸びませんでしたが、そんなとき美容外科の先生に頭にシリコンを入れる方法を提案されました。
頭の上にシリコンを埋めこんでそこに水をいれれば、その分身長が高くなります。検査が終われば水を抜いて、シリコンを取り除けばいいのです。これは良いアイデアだと思った私は、迷わず手術をうけることにしました。
ところが手術が終わってからが大変でした。帰りのタクシーの中でおもいきり吐いて、激痛のあまり3日間まったく寝られなかった。痛み、めまい、不整脈、脱毛、嘔吐・・・と次々に苦痛に襲われました。その後は美容外科で生理食塩水を頭部のシリコンに注入してもらう日々。これもまた激痛で痛みは一月ほど続きました。しかしおかげで二度目の新弟子検査に合格し、大相撲の世界に入ることができました。どん底はひとまず脱することができたのです。


第5756号 日々新聞  2016年7月8(金)
もう一人の自分を創る(2) 舞の海秀平
相撲界に入り、関取に昇進してからも、どん底にちかい状況を味わったことがあります。平成8年名古屋場所での小錦関との対戦で、左膝の靱帯2本、断裂してしまいました。274キロあった小錦関が私の左膝に載るようなかたちで倒れこんでしまったのです。ケガをした自分の身体能力の低さにはらがたつとどうじに、辞める理由ができた、と少しホットしました。当時28歳で現役生活6年以上。あちこち痛んでいて、引退の時期も考えるようになっていました。
ところが周りの人たちは復帰するものだとおもっている。「まだやらないといけないのか・・・」正直なところ気が重くなりました。でも病院のベッドの上でふと思ったんです。「このまま止めてしまったら、のちのちの人生を振り返ったとき、大好きな相撲を力のかぎりやったといえるのか」と「逃げたと悔やむんじゃないか、と。
 自分の心は騙せない・・・よし、このケガを乗り越えよう。復帰にむけてもう一度挑戦しよう。そう決心するに至りました。そしてリハビリの先生に協力していただいて、私は再び土俵に戻ることができました。
 その後迎えた、忘れもしない平成9年の夏場所、私は再び小錦関と土俵の上で対峙しました。こみ上げる喜びを噛みしめ、充実感と爽快感につつまれました。ここまでがんばってきてよかった。この思いをむねにこの先も生きていける。そうつくずく思いました。
何かあると、いつも“もう一人の自分”が現れます。もう一人の私は私に問かけます。「このまま逃げて無様に人生を終えていいのか」と。「世界には明日食べるものがない人もいる。でもお前は、好きな相撲をやれる。それなのに、この程度で諦めるのか」とリハビリに取り組んでいた時も、もう一人の自分が現れ、私を叱咤しました。
あらためて振り返ると、どん底など何もなかったように思えます。


第5757号 日々新聞  2016年7月11(月)
我に言う「ごくろうさま」脇坂勝幸」
昨日は選挙でしたが会社の慰安旅行と重なり、選挙に行けなかった人もあ
ったことでしょうね。新しい選挙制度で18歳から選挙権が与えられた最初の選挙でした。あらかじめ投票日が解っているのですかえら、事前の投票制度がありますから、もし次の機会に仕事などが重なった場合は、期日前の投票をすることにしましょう。
大事な選挙は自分の意思を表明し、権利を行使して自分自身の生活環境を守ったり、変革したりするのに使うことを是非してもらいたいものです。
自分の運命は自分で決めることは出来る条件が現在の日本には制度として保障されているのです。
自分を大切にするということは、その意思をもつことから始めなければ、他人は自分の意思はわからないのですから、しっかり自分の将来の夢を持ち、描くことからはじめれば、叶えられる条件はいくらでもあるものです。
小さいことから叶える事の習慣をつけることで、目標は追い続ければ叶うものだと気付くものです。
そして叶えららたら、いくらかの努力にたいして、自分に「ごくろうさま」と労わる習慣もはじめましょう。
なぜかといえば、日本社会は人を褒めるという習慣が殆どないので、他人は自分の努力と成果を気付かなかったり、知っていても自分の計画ロマンがいかに自分にとって大事なものか、ということは他人は解らないものなのです。
自分の成果に「ごくろうさま」ということで、自信も生まれていきます。
だいぶ前にマラソンの女子の選手で優勝したとき、「自分を褒めてやりたい」といった有森さんというランナーが公衆の前で発したことばが「自分をほめてれやります」といって「なんと爽やかな言葉と行動だろう」と日本中に感激を与えたことでした。だれでも自分を褒めてやる、ごくろうさま、といってやることでなるほど元気がでるものだ、ということを気付かせてくれました。
自分を伸ばし発展させることは、ほかならぬ自分自身でできることなのですね。





第5758号 日々新聞  2016年7月12(火)
がむしゃらに  原辰徳
ぼくのプロ野球とのかかわりの最初は、昭和55年11月26日のドラフト会議です。自分の運命が他人の手の中にあるということで、「ドラフトなんて」と思ったりもしましたが、その日は「どうか巨人に入団できますように」と云える気持ちだけでした。そして指名されたその日からぼくは巨人軍の一員としての自覚を持ちました。
 しかし今だからこそ言えるのですがたとえ他の球団から指名されても、やはりぼくはどこかのチームで野球をやっていたと思います。野球がやりたいという気持ちは捨てることはできなかっただろうから。
父は野球をやっていましたが、僕に強制したことはありませんでした。小学3年の時少年野球チームに入ったわけですが、今思えばプロまで一直線と言えるかもしれません。ただ好き好きで常に前をみつめて「野球に頂上はない」とおもってがむしゃらに続けていました。事野球に関しては、「挫折感」を味わったことは有りません。
 学生時代のそれは、クラブ活動としての、プロから見れば甘い野球ですが、それなりに口では言えないほどの厳しいものがありました。もういちど高校生になって野球をやるかと聞かれたら、苦しさを知った今は、やりますと自信を持ってはいえないほどです。
 辛くてやめたいと思った時にも理屈ぬきで好きだったから、やめないでしっかりと目標を見つけてやってこれました。
好きな事であれば、人間苦しみに耐えられるものです。ぼくが辞めたいとおもったらいつでもやめれる状態にありながら、やめないできたのももう好きだという気持ち以外に在りません。
高校の時の甲子園、大学なら全日本選手権という目標にむかっていましたから、あっと言う間に過ぎたような気がします。

第5759号 日々新聞  2016年7月13(水)
がむしゃらに(2)  原辰徳
苦しい練習の中で、ときには遊んでいる友人を羨ましんだこともありましたが、逆にふと、彼らには目標があるんだろうか、何を考えているんだろう、大丈夫なのか・・・と、目指すもののあることに力を得たものです。
高校3年の、皆が進路を考え始めるころに、プロ野球を、それまでの憧れから、自分の職業として意識するようになりました。が、そのためにああしよう、こうしようという変な欲はありませんでした。ドラフトに関していえば運がよかったわけですが、これも自分がそれなりに目標に向かって全力を尽くしたからこそ道が開けたのであって、最初から道があったわけではないと思います。
棚からボタモチとは思っていません。
 プロ1年目に納得のいく成績をおさめることができたのも、結局はただ「これがぼくの仕事だ」と無我夢中でがむしゃらにやってきた結果ではないでしょうか。ぼくは「一生懸命」と「忍耐」ということばが好きなのですが、がむしゃらにやるということは、とても尊いことだと考えています。
素っ裸になって打ち込んだ時には、たとえ結果が悪くても納得ができます。
気を「ぬいてやっても、一生懸命やっても、どちらにしても結果と言うのは出てくるものです。おなじ出るなら、やっぱり一生懸命悔いなく、がむしゃらにやって出したい。
そして何をやるにしても、忍耐強く根気がなかったら人間はおおきくなれないのではないのではないのでしょうか。
忍耐のないのは綺麗におみえても直ぐ剥げるメッキのような物に思えます。
どんな世界でも、どんな小さなことでも、自分自身で夢や好きなものをみつけだして、それにむかって全力で突進していく、ダラダラと生活するのではなく道をきわめるとか、そうゆう大げさなことではなくても、何かの目標をもつてつきすすむ、これが大切なように思います。
いやいや時を過ごしても人生面白くないじゃありませんか。


第5760号 日々新聞  2016年7月14(木)
6月の業績【営業会議】
6月の売上
工事部
船場メヂカル構造調査と補修       岡本
道頓堀1丁目プロゼクト         岡本
(他1件)
畑本ビル各所補修            和田
(他1件)
ビッグボーイ守山店改修工事       山下
(他3件)
コムボックス光明池足場架設工事      山下
船場メヂカル補修工事           青木
(他1件)
十川ゴム本社ビル外壁工事         村尾
コカコーラいずみ大津           村尾
御堂筋ミナミビル清掃員控え室       村尾
(他12件)

SL部
万代法隆寺店駐車場改修工事        結城
(他1件)
天理駅前広場空間整備           上原
堺し三原複合店舗             大西
天見様開発造成工事              大西
(他5件)
大和物流港センター              濱田

7月売上計画
工事部
インタルシオ武庫之荘             岡本
(他3件)
木下さま店舗新築工事             和田
ウエルシア海図化店新築            和田
(他1件)
船場メヂカル補修工事             青木
(他2件)
リーガル立売堀                村尾
総合技術研究所                村尾
(他6件)


第5761号 日々新聞  2016年7月15(金)
安心は時間の計画から  脇坂勝幸
わたしたち建築に携わる者で一番大事にしなければならないのは、時間の計画です。建築の現場というのは、色々の職種が前後との関連によってでなければ建物は完成しないものですね。そこには順序を飛び越えて進むことは許されないのです。基礎がなければ上部構造は建たないし、そこには人が関与しなければならないのです。
人が計画し、その順序を決めるのはマネージメントすることですね。マネージメントには建築の場合図面が用意されるわけで、この図面が時間によって進められるのです。建築は人の動きがなければ一つも前に進まないわけで、人の動きは、時間によって管理されるのです。私達の会社は人を動かすマネージメントが中心なのですね。
人が動くということは、時間に従って動くともいえるのです。ですから時間を配分する計画をするために私たちは行動しているといえるのです。
この時間計画を正しく作ることができるか、というのが優れた管理者になれる条件ともいえるのです。
時間管理ができることで、私達は工事の進行に安心して完成を期待できるわけです。安心とは未来を正確に予測できることからうまれるのです。
この習慣を身につけることで、一般の日常社会にも適用できる能力がうまれるものです。従って人々は信頼して任せられる人だとみてくれるようになり、言っていることがいつも的を得ている人、と見られるのです。
時間を守る人のことを信用できる人、または会社でも信頼できる会社となり、安定した受注できるのです。
現在の社会は信用社会と言われるのは、この時間を守ることから生まれるのですね。自分も会社も安定して日常が回っていけるのは、この時間の計画が出来る人や会社のことを言っているのです。



第5762号 日々新聞  2016年7月19(火)
支えてくれる人を忘れない  立浪和義(野球解説者)
人に慕われる人、頼られる人、尊敬される人・・・こうした人は、器の大きい人が多いですね。それから気遣いができて、礼儀正しく、他の人やモノに感謝できる人、根気があって我慢強い人もやはり器が大きな人が多いような気がします。と同時にそうゆう人は、人としてのふところも深そうです。
 ではどうすればそうゆう器が大きく、ふとことが深い人になれるのか。それにはやはり苦労や困難に逃げずに立ち向かい、乗り越える努力が大事ではないでしょうか。苦労した数が多いほど、あるいは困難を乗り越えた数が多いほど、人は磨かれ、人間性も高められていくような気がします。
 私は高校卒業の18歳から40歳までの22年間プロ選手として野球をしてきました。野球を始めたのは小学4年生ですから、そこから数えると、約30年間、選手として野球に打ち込んでいたことになります。野球はまさに私を育ててくれ、数々の大事な経験を野球を通じてさせてもらいました。
 たとえば、基本の大切さ、努力の大切さ。これは口で言うのはたやすいですが、実際基本を大切にして努力を続けるのは並みたいていのことではありません。
 野球ではヒットヤホームランという“成果”がたて続けにでることがよくあります。でもそこで慢心すると成績はアット言う間に落ちていく可能性が高いし、思わぬケガに見舞われることにもなりかねません。
 反対に、成果がなかなか出ないと、いくら頑張っても無駄だ、と言う思いになりがちです。だったら適当にサボッテ、手を抜いてもおなじじゃないかと考えてしまうかもしれません。でも、何処の世界でも、成果はそう簡単にでるものではないですよね。成果が着いてこない時こそ、「なにくそ」と「負けんきで頑張る。その心の強さも大切だと思います。
 成果が出てもでなくても、地道に鍛錬し、基礎練習を怠らない、そうした人は長く第一線で活躍できるとつくずく実感しています。


第5763号 日々新聞  2016年7月20(水)
支えてくれる人を忘れない(2)  立浪和義(野球解説者)
礼儀正しく、周りに感謝の念を持つ
伸びる人、伸びない人を比べると、礼儀や感謝の念などの有無なども大きく関係しているように思います。プロ野球の場合、選手の周りには、身体のケアをしてくれるトレーナーや打撃練習の際にボールを投げてくれるバッチングピッチャなどがいます。彼らは裏で選手を支えてくれていて、彼らの存在なしに、選手が活躍することはできません。だから当然、感謝すべき人たちで、傲慢な態度で接することなどもってのほかです。
例え野球が非常に上手くても裏でささえてくれる人たちに感謝の一言も言えないようでは、誰からも段々応援されなくなって行くでしょう。それこそ、人としての器に欠けけているから、ついてくる人もやがてなくなるのではないでしょうか。
お金の使い方にも、其の人の器があらわれるかもしれません。プロ野球で活躍すると、1億、2億、3億といったお金は、勿論大金です。でもその大金は。支えてくれた人たちがあるからこそ得ることのできたお金でもあります。その事実を解っているのなら、そうした人たちのために、御馳走したりするのも、形としては大事なことのように思います。でもせこい人は、おごらない。自分のためだけにしか使わないから、こうしたことにも、人としての器の違いがでてくるようです。
控えに回ったことがいい経験
振り返れば、私の野球人生はずっと厳しい環境でやらせていただいてきました。「やらせていただいた」という言い方は、正に私の正直な思いで、厳しい環境にいられたことに、とても感謝しています。
 PL學園高校時代には、一般的に非常に厳しいといわれる寮生活を送りつつ、礼儀や仲間との絆の大切さを身にしみて学ぶことができました。
プロに入った時の監督は星野仙一さんで、本当に厳しかった。でもその厳しさが、私を育ててくれたと思っています。


第5764号 日々新聞  2016年7月21(木)
控えに回ったことがいい経験(3) 立浪和義(野球解説者)
有難いことに、18歳の1年目からレギュラーとして試合に出させていただきました。ケガをした2年目には二軍にまわりましたが、その後はずっと一軍レギュラーでした。
ところが、三〇代後半になると、控えに回ることが多くなりました。試合に出るとしたら、代打、これまでの野球人生のなかではなかったことです。まだやれるという思いがあったから、内心穏やかではありませんでした。でも、現実は受け入れなければいかない。一打席たりともおろそかにできない。その思いは一層強くなり、一打席に全ての気を入れ、集中するようにしました。
 控えにまわったことに落ち込んだ日もありましたが、今となれば、いい経験をさせてもらって、本当に良かったと思います。レギュラーだけで選手生活を終えていたら、控えの選手の気持ちは解らず、驕りに繋がっていたかもしれません。
 そもそも好きな野球を仕事にできていること自体、とても幸せなことです。
 ある病院の小児科病棟に慰問で伺ったことがあります。細かい腕に点滴の針を刺したり鼻に菅を入れたりしつつ、懸命に病気と闘っているこどもたち。その子たちに接すると健康な体で野球ができる自分がいかに恵まれているかを知らされましたし「がんばろう」という気持ちも新たになりました。
プロ野球の選手に会えたといって明るい表情を見せてくれたこどもたちには、プロ野球の社会的使命を教えられた気持ちです。
 現役を引退して6年経ちますが、いずれもう一度ユニホームを着てグラウンドに立ちたい思いがあります。今度は指導者と言う立場で、そして願わくば選手時代と同じ中日ドラゴンズで。ただいま、ただいている野球解説などの仕事に一生懸命取り組みたいです。


第5765号 日々新聞  2016年7月22(金)
今日がスタート   脇坂勝幸
私達の日常はいつもと変わりないように見えても細かくみていけば何か少しずつ変化しているのですね。だがその変化に気付くことと素通りすることとの違いが人々の値打ちが違ってくるようです。
物事の変化を読み取るということは、目に見えない動きを読み取るということといえるようです。目に見えない動きは次の変化を予測することに繋がるもののようです。
次を予測するというのが人間の知恵になって環境に対応する人間を生み出してきたのでした。
方丈記の冒頭に鴨長明が「行く河の流れは絶えずしてしかも元の水にはあらず」と書きだしていますが、このように物事を昨日と今日は違うのだという考えは昔から人々は心得ていたようです。
なにをするにもこの心を持ち今日がスタートだと考えて物事に取り組むことは、新しい次の変化を発見したり予測したりする心構えのようです。
いつも何事にもこのように思って行動すれば緊張でたまったものでない。といえるのですが、時々はこの心を頭にいれておくことで、世間のあらゆることに柔軟な姿勢で対応することができるのではないでしょうか。
何か大事なことを決める時の心構えとして「今日からがスタート」とその時思い出す基準にしていれば、いろいろな問題の取り組みの姿勢が定まるのだとおもいます。この意味は、過去にとらわれず、経験に頼らずという意味が含まれているのですね。
そしてそれを問題の時の習慣にしていれば、「信念のある人」とか「頼りがいのある人」などと周囲から尊敬され、当てにされる人になるようです。


第5766号 日々新聞  2016年7月25(月)
迷ったとこはやってみる 澤穂希(前ナデシコジャパン)
私の人生の最大の決断といえば、昨年末に発表した現役引退です。実はここ1,2年はそのことでずっと悩んでいました。
職業としてのサッカー選手をやっている以上、常に実績が要求されます。1年1年が勝負です。シーズンが終わると来年はどうすべきか真剣に悩んでいました。
自分の人生は自分で決める
特に昨年はしんどかったですね。カナダでワールドカップがありましたが、私は一時期代表を外れていました。それまでずっと試合に出続けていましたので、どうやって自分の気持ちや身体を維持していくのか、手探りの状態でした。
 夫には常に相談していましたが、「最終的に決めるのは自分だよ」と、私自身もそう思っていたので、「トップレベルで戦えるのか」と何度も何度も自問自答し、昨年心と身体が一致しなくなったことを認識しました。
 発表したとき、周りからは「えっ!なんで」「リオ五輪をめざしてやっていたのに」と驚かれました。でも自分で一度決めたことは、誰がなんと言おうと揺るぎませんでした。
「自分の人生は自分で決める」というのは、幼ない頃からそうでした。3歳で水泳を始めたのも、6歳でサッカーをやると決めたのも、アメリカのチームに移籍するために、せっかく入った大学を中退したのも、最終的には自分で決めました。そういえば夫との結婚も「結婚する」と決めてから両親に伝えたので、驚いていましたね。
 自分で「これだ」と決めたら譲らない強さは母親譲りかもしれません。母も頑固なので、似た者同士、今もよくぶっかります。
そんな私も、もちろん迷うことがあります。でも思うのですが、迷うのは、自分がそれをやりたいときではないでしょうか。やりたくなければ、そもそもはじめから迷うことすらないと思うんです。やりたいと思っているから迷う。それならまずやってみればいい。やって後悔したほうがやらずに後悔するより何百倍もまし。そう考えてこれまで駈けてきました。

第5767号 日々新聞  2016年7月26(火)
迷ったとこはやってみる(2) 澤穂希(前ナデシコジャパン)
試練が人を強くする
当然やってみて後悔することもたくさんあります。「失敗した」と思うことはしょっちゅうあります。
 たとえば大学のとき、教師になるために進学したのはいいけれど、やっぱり、サッかーをメインにやりたくて、悶々としていた時期がありました。アメリカのチームからオファーがきたのです。
 海外でプレーしたいという思いに火がつき、母の反対を押しきって大学を中退。本当に身体ひとつでアメリカに渡りました。
 しかし、いざ行ってみると、言葉は通じないし、お金はない、相談する人もいない・・・猛烈なホームシックに襲われたんです。
 今のようにインターネットが身近になかったので、日本に助けを求める手紙を送っても、返事がもどってくるのは、2週間後。ワーキングビザではないので、働くこともできません。しかたなく他のチームのスコアラーを引き受けて、時給でお金を貰っていました。自分で決断したことでしたが、あのときは、辛かったですね。
 でも人間とはなんとかなるものです。現実をつきつけられて落ち込む毎日でしたが、3カ月もするとすっかり慣れていました。
 4年後のアメリカのプロリーグが財政破たんで消滅してしまい、帰国を余儀なした。日本を発つ前よりお、ずっと自分が強くなっているいることに気画つきました。
 今では、あのとき踏ん張った経験があったからこそと、その後の私があると断言できます。嫌なことや失敗がないと、人は成長しません。失敗するからこそ、次はこうしようという選択肢が増え、視野が広がります。
 人生は全て学びで、一つとして無駄なことはない。アメリカでの生活でそんな思いを強くしました。

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by akinishi1122 | 2016-07-26 05:53 | 社内新聞 | Comments(0)

日本資本主義の生れ方

第5730号 日々新聞  2016年6月2日(木)
日本資本主義の生れ方(2)
工業が生まれたのはやはり農業にたずさわる仕事、鎌、斧、鍬などを作る家内工業と、生活に必要な衣服の紡績などの家内工業でした。そしてその商品を運ぶ運搬手段のリヤカー、舟、などの鉄を使った製品の家内工業でした。また蒸気機関車や機械を動かす燃料の石炭産業が工場を動かすのに必要となり、国も石炭の発掘に国を挙げて取り組みました。そして商品の売買の仲介商人、お金をつごうする両替屋などが商品の流通の役割をして、武士は武力だけでは、生活に必要な商品が買えない時代になったのです。
身分制度では武士、農業、工業、商売と一応は階級社会という名目はあっtものの、武士の給料は貨幣としての米の支給だけではあまりにも商品の種類が多くでまわり、米だけでは商品の交換ができない貨幣(お金)がなければ生きていけない時代になりました。ですから身分制度じたいが意味をなさないことになり、権力はあっても金がなければ、社会は尊敬も信頼もされないという時代になったのが幕末の社会だったのです。
大名でも両替屋に米を担保にお金を借りねば必要な商品は手にいれることができないのです。
大名も両替屋、金貸しに頭があがらず、お金が物を云う社会になりました。
生産者である農家も米以外の野菜や果物、蜜柑などのお金になる生産物をつくれば、金が裕福になり、地域でも発言力が強くなってきました。味噌、醤油、油がかく部落にできて、生活物資が部落、村単位のしゃかいになりました。
こうして武家社会である封建制社会は力がなくなり次第に企業家や商人、そして両替屋(金貸し)が大名や幕府の台所まで入り込み権力者と結び着いて、国を動かすようになりました。
なかでも金貸しは工場や商売人にも金を貸すことで金貸し業が発言力をもつようになりました。
鉱山や鉄工業などと金融業をはじめる総合の商社となり、国家権力に入り込
これが日本の資本主義社会の流れなのです。

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by akinishi1122 | 2016-06-04 10:19 | 社内新聞 | Comments(0)

6月の社内新聞

第5729号 日々新聞  2016年6月1日(水)
日本資本主義の生れかた
日本の資本主義の発達は明治維新の廃藩置県から世界の資本主義の仲間いりしてきました。幕末にはペリーが日本に来て開国をせまり、もう鎖国では外国の植民地にされる状態でした。長崎が唯一の外国への窓口で、外国文化が伝わってきて、大砲や船、文化が日本の武器や生活、考えかたが違い、キリスト教の文化で幕府やお上と違って人間は神のもとではみな平等だという人間の幸せが個人の幸せを見つけることが伝わってきていたのですね。
そして外国船が日本に接近して水や食料を補給する必要で、世界の動きが活発になっていたのでした。
世界は経済が国を越えて貿易が広がり、日本は産業の発展に取りのこされることを肌で感じる時代になったのです。
薩摩藩などは琉球を通じて鉄砲も輸入し幕府の力をうわまわる武器を持つことで、江戸幕府を怖くおもわなくなってきていました。
一方外国は開国をせまり、駐在地での外国人の治外法権を要求、日本には法律が無いから、日本での犯罪かどうかも基準がなく、信用できないと日本を野蛮の未開地として国として認めなく、犯罪を犯しても日本には裁判権を認めない状態でした。
これらから、一日も早く西洋文化取り入れ世界から、文明国を認められる政策をとらざるをえなかったのです。
でなければ野蛮の国として扱われる危険があったのでした。
国から西欧使節団を派遣し、ドイツを主に法律や社会制度、医療などをそのままの状態で翻訳して取り入れたのでした。
産業は、国を守るために軍艦や鉄、武器などや、産業のかなめである石炭、鉱山などを国営として作り、それを民間に只同然の値段で払い下げ、産業を官制の事業として、資本主義を国が率先してつくったのでした。
国民の知識を普及するために全国の小学校もつくり、政府の管理できるように政府の役人を生み出すために帝国大学(東大、京都大、九州大、東北大、北海道大)などで政府の高級官僚をつくるための大学も作ったのでした。
これが日本の駆け足資本主義のはじまりだったのです。

第5730号 日々新聞  2016年6月2日(木)
日本資本主義の生れ方(2)
工業が生まれたのはやはり農業にたずさわる仕事、鎌、斧、鍬などを作る家内工業と、生活に必要な衣服の紡績などの家内工業でした。そしてその商品を運ぶ運搬手段のリヤカー、舟、などの鉄を使った製品の家内工業でした。また蒸気機関車や機械を動かす燃料の石炭産業が工場を動かすのに必要となり、国も石炭の発掘に国を挙げて取り組みました。そして商品の売買の仲介商人、お金をつごうする両替屋などが商品の流通の役割をして、武士は武力だけでは、生活に必要な商品が買えない時代になったのです。
身分制度では武士、農業、工業、商売と一応は階級社会という名目はあっtものの、武士の給料は貨幣としての米の支給だけではあまりにも商品の種類が多くでまわり、米だけでは商品の交換ができない貨幣(お金)がなければ生きていけない時代になりました。ですから身分制度じたいが意味をなさないことになり、権力はあっても金がなければ、社会は尊敬も信頼もされないという時代になったのが幕末の社会だったのです。
大名でも両替屋に米を担保にお金を借りねば必要な商品は手にいれることができないのです。
大名も両替屋、金貸しに頭があがらず、お金が物を云う社会になりました。
生産者である農家も米以外の野菜や果物、蜜柑などのお金になる生産物をつくれば、金が裕福になり、地域でも発言力が強くなってきました。味噌、醤油、油がかく部落にできて、生活物資が部落、村単位のしゃかいになりました。
こうして武家社会である封建制社会は力がなくなり次第に企業家や商人、そして両替屋(金貸し)が大名や幕府の台所まで入り込み権力者と結び着いて、国を動かすようになりました。
なかでも金貸しは工場や商売人にも金を貸すことで金貸し業が発言力をもつようになりました。
鉱山や鉄工業などと金融業をはじめる総合の商社となり、国家権力に入り込
これが日本の資本主義社会の流れなのです。

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by akinishi1122 | 2016-06-02 08:36 | 社内新聞 | Comments(0)

5月の社内新聞

第5712号 日々新聞  2016年5月6日(金)
日本国憲法は世界の宝です
日本の憲法が出来たのは1945年8月15日ポツダム宣言という戦争をしている相手国のアメリカ、中国、イギリス、ソビエト、フランス、などが作成した戦争後の処理をし、平和国家をつくることを受け入れ、軍隊を持たない、戦争の過ちをくりかやさないことを約束して、戦争が終わったのです。
どんなことを誓って受け入れたかというのは、その後の憲法の精神である憲法前文に誓いとして世界に誓約したのでした。
その前文とは
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすると決意」したのです。いままでの戦争は国民が全く知らないままに戦争を始め、その犠牲になったのは、日本国民の青年であり、最後にちかくなると一般国民の年寄や婦人、子どもまで直接の爆撃や原爆などで皆殺しの状態で犠牲になったのです。
戦争を起こすのは時の政府であり、その政府を監視するという立場を新しい憲法で決めたのです。
権力が政府にだけが持つと一部の政治家で戦争を始めるから、国民が政府を縛る制度を憲法に書きこんで約束したのです。
戦争というのは、「今から外国に戦争を仕掛ける」とか外国の領土を奪う。などとはどの政府も言わないものですが、政府を支えている軍需産業などが戦争することで勢力を拡張するのが常なのです。その原因を知っていますから、国民が政府を監視し戦争させない、という決めごとの憲法をつくったのです。
国民が政府の暴走を止めるという考えは16世紀のフランス革命やアメリカの独立宣言にとりいれられて、進んだ国は国民が主権者であるともう300年も前から普通の考えになっていたのです。
いま自民党の憲法改定案によると、国民一人一人を尊重している今の基本的人権をまた戦前の様に逆に政府が国民を縛る憲法に変えることと、戦争を禁止している憲法を戦争が出来る国にしようと計画されているのです。
今度の7月の参院選挙でその方向で選挙に掲げるといっているのですから、いっそう憲法問題に関心をもたねば、ならない時期にきているのです。


第5713号 日々新聞  2016年5月9日(月)

1.集団的自衛権はなぜ違憲なのか
 6月4日の憲法審査会で、参考人の憲法学者が集団的自衛権行使容認を違憲と断じた。このことの影響は大きく、政府・与党は釈明に追われている。もっとも、集団的自衛権行使容認違憲説は、ほとんどの憲法学者が一致して支持する学界通説である。まずは、「なぜ学説が集団的自衛権違憲説で一致するのか」確認しておこう。

 日本国憲法では、憲法9条1項で戦争・武力行使が禁じられ、9条2項では「軍」の編成と「戦力」不保持が規定される。このため、外国政府への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国政府への武力行使をしようとするなら、9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある。

 「9条の例外を認めた規定はない」と考えるなら、個別的自衛権違憲説になる。改憲論者の多くは、この見解を前提に、日本防衛のために改憲が必要だと言う。

第5714号 日々新聞  2016年5月10日(火)
安保法(戦争法)は何故憲法違反なのか
 憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。
 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。
 では、集団的自衛権の行使を基礎付ける憲法の条文は存在するか。これは、ネッシーを探すのと同じくらいに無理がある。国際法尊重や国際協調を宣言する文言はあるものの、これは、あくまで外国政府の尊重を宣言するものに過ぎない。「外国を防衛する義務」を政府に課す規定は、どこにも存在しない。
 また、外国の防衛を援助するための武力行使は、「防衛行政」や「外交協力」の範囲には含まれず、「軍事」活動になるだろう。ところが、政府の権限を列挙した憲法73条には、「行政」と「外交」の権限があるだけで「軍事」の規定がない。政府が集団的自衛権を行使するのは、憲法で附与されていない軍事権の行使となり、越権行為になるだろう。
 つまり、日本国憲法の下では、自衛隊が外国の政府との関係でなしうる活動は、防衛行政としての個別的自衛権の行使と、外交協力として専門技術者として派遣されるPKO活動などに限定せざるを得ない。
 以上のように、個別的自衛権すら違憲と理解する憲法学者はもちろん、個別的自衛権は合憲と理解する憲法学者であっても、集団的自衛権の行使は違憲と解釈している。憲法学者の圧倒的多数は、解釈ロジックを明示してきたかどうかはともかく、集団的自衛権が違憲であると解釈していた。さらに、従来の政府も集団的自衛権は違憲だと説明してきたし、多くの国民もそう考えていた。だからこそ、集団的自衛権の行使を容認すべきだとする政治家や有識者は、改憲を訴えてきたのだ。

第5715号 日々新聞  2016年5月11日(水)
コンプレックスについて考えてみませんか
先ず人間である以上コンプレックスの無い人間は一人も存在しないと考えて間違いないようです。
人間は生きていくために、自分の環境を自分に都合よく、生活しやすいように改革、改善してきたのです。そして自然や人間同士の助け合いや利用しあい、協力しあいして、先ず家族、集落をつくることを覚えましうた。それは他の動物と違い身体に武器となるものがなかったからです。これがはじめのうちの他動物や自然にたいする弱さ(初期のコンプレックス)があったのです。ライオンや虎、狼、などは自然の外敵でした。それを防備するためにそれらの猛獣から身を守ることは、消極的なコンプレックス防止策として、居住する住まいに安心して生活するための住まい、囲い塀、堀などを考えたものです。
そして、食べるために定着して雨、風、寒さを防ぐことを人間は、衣類としての毛皮を獲り、寒さに対して身を守る衣服を考えねばならなかったのです。最初は初歩的の動物の毛皮を衣類にあてることも発見ですね。
これは寒さに対するコンプレックスが考えつかせたものです。
それからいつでもだれでも毛皮が手にはいることはないですから、集団で毛皮の動物を捕獲するという協同することを考えだしたのです。これはいつでも手に入らないという困難(コンプレックス)に対して人間は猛獣や毛皮を捕獲するために協同するという違った、進歩した考えがみつけだしたのです。
ここれは、一人では獲得できないというコンプレックスからでた協同することで生きていくことの発見です。人類文化が他の動物に無いものが生まれたのですね。
このように生きていくためには、コンプレックスを克服するための新しい文化、人間の協同する文化を自分たちでつくりだしたのですね。
このように、人間が家屋を創り、定着することで、共通の情報の知識を集団で生み出したのが協同生活、協同の住まいで人々が定着することで、弱い人間が他の動物に対抗し、守り、征服する知恵を生み出したのですね。
新しい知恵を生む元になるものは全て自分の弱さ、それへのコンプレックス
が新しい知恵をつくりだしてきたのでした。コンプレックスは新しい物事を生み出す重要な財産といっていいのですね。

第5716号 日々新聞  2016年5月12日(木)
コンプレックスの大きさは目的の大きさと等しい
人間は絶えず現状を変えて少しでも良い生き方や生活を望むものです。ですから現状を変えて少しでも良い生活をしたいと絶えず思うものですね。それが人間であり、もっとも人間らしい姿なのです。
ところが、日本には武家社会という社会システムが300年ぐらい前から階級社会である士農工商という社会システムがつくられたのです。そして身分制度でその身分に相応しい生活、や文化を尊ぶという社会になったのですね。
その階級に相応しい文化を強制されたのです。武士は武士の道徳という忠君思想として階級の上の者には従うという考えで、戦においては上意に従うということが美徳として、階級制度を維持してきたのです。
また農業は封建時代の税金である米の生産にたずさわる農民が武士の次に階級として位置ずけられたのでした。何故農民の地位が高いかといえば、税金貨幣の価値を米で決められていたから、その生産者はいわば経済をささえる役割をしていたからなのですね。
実際は金銭、貨幣を生み出す階級は工業者や、商売人だったのですが、土地を管理し、大名の財政を支えるのは米の石高だったため、農民が土地を管理しそこから生産物を税金として納めたり、万一戦が始まると、武士の補充兵役や、築城、道路、河川工事に役立つのが農民だったからなのです。
だがこの農民の税金として支払う米では市民社会では不便で貨幣としての価値が米は薄れてきたのです。
米に代わる貨幣を自由に手に入れる商売人がお米のかわりに貨幣を流通させて、欲しい物は米でなく貨幣に段々かわってきたのでした。
商業資本が力を持つようになったのは、大名に米を担保に貨幣を貸して、大名や武士たちのお金を貸す流ができてきて、幕末になると、商業資本の両替屋が大名以上に力をもつようになったのです。
これで実際の幕府の力は統制がきかなくなり、明治維新として資本主義、産業資本家が政府まで動かす時代になったのです。
実力をもった産業資本家は大名や皇族に娘を嫁がせ、階級のコンプレックスをお金で買うという動きの流れになってきました。
このように意識と実力の差のコンプレックスは時代の流れによって価値観、コンプレックスもコンプレックスでなくなることにもなるものです。
コンプレックスはその時代や環境によってドンドン変化するものですからコンプレックスというのは希望が克服されたら、エネルギーの源にさえなるものです。

第5717号 日々新聞  2016年5月13日(金)
コンプレックスは最も人間らしい
世の中の偉人といわれている人達の伝記をみれば、何か必ずコンプレックスを持っていることが共通ですね。誰にでもあるコンプレックスを次に生かすためにどのようにしてバネにしたかの違いが普通人とちがうところのよういです。
松下幸之助は家が貧乏で学校も小学4年までしか行けなかったことをコンプレックスとして持っていたのでした。それに身体が弱くて体を使う労働ができなかったのです。ですから世間では普通につきあうことができないというハンデーをもっていました。学門がないということは、人に聞くことが当たり前ということだったので、解らないことは知っている人に聞くという習慣が恥とおもわず当たり前だったのですね。知る人に聞く、そして感謝をするという日常は幸之助の性質となったため、聞かれた人も喜ぶわけで、知人がたくさんできるという環境もできたのです。
身体が弱いということは、仕事をする仲間にお世話になる、人に頼るということを当たり前の生活になったのです。
彼にとってはコンプレックスを卑下するということではなく、他人を尊重し学ぶこと、頼ることとして協力者を創ることに使ったのでした。
コンプレックスの反対は優越観となりますが、優越感というのはそれを表現すると、人々は快くおもわないものです。
優越感を持つことは悪いことではありませんが、人にひけらかすということで、人々協力は得られないものです。自分で持つことはエネルギーを注ぐことに役にたちますが、人々はそれぞれ個性と優れたものをもっているのですから、人々と協力することに妨げになるような優越感は外に向けては出さないほうがベターかもしれませんね。


第5718号 日々新聞  2016年5月16日(月)
今日からでも一ページ遅くない  脇坂勝幸
人間の考えることはどんな人でも大方同じ事を考えものですね。人と自分が違うのは行動するかしないかというのが違うだけで、人が成果をだしたら、後であんなことだったら僕でも考えていたことだったのにと、残念がることが誰でも経験すたことがありますね。その通りなのです。だがその行動がなかなか出来ないのは、行動の前に失敗したらどうしょ!と誰でも思うものです。
一方成功することが多い人は、その考えの中に「やって見なあ解らん」とい気持ちの持ち主が多いようです。
このやってみなあ解らんということを会社の行動方針にしているのがサントリーという会社なのですが、この考えは今から200年も前の創業者が言った言葉ですが、現代の経営ばかりでなく全てにもこの精神は通用するのですね。
なにも難かしく考えて作ったことばではなく、毎日の経験を身につけた自分の言葉から出来た考えなのですね。
昔から、「人には沿ってみよ。馬には乗ってみよ」という年寄の言葉を聞いたことがあると想います。
人を知るためには、外見だけでなく、沿ってみる、話してみる、ことで自分が思っていた人でなく、素晴らしい生き方を聞きだすことができた経験も皆さんあるとおもいます。馬には乗ってみよ、という言葉も馬が人間の思いをどのようにしたら理解してくれるか?も自分が乗ってみなければ馬の性質もわからないもので、人間の思うように動いてくれるためには、教えるコツを乗ってみて初めて理解できるというものです。
頭で考えるだけではなく、一緒に作業をする行動が物事の性質が理解できるというものです。
ですから、自分が考えることは行動してみて、その考えが正しいものかというこということが結果として表れるので、その物の認識が正しいか、間違いだったかということが結果としてでるために、先ず思ったことは行動することで正しい認識ができるものですね。
考えを行動に移す事は遅すぎるということはないのです。思ったことは先ず行動して自分の認識をひとつずつ増やしていくことが優れた人と外部から見えるものです。

第5719号 日々新聞  2016年5月17日(火)
当てにされてやる気になる
人間は自分が当てにされていると知ったとき俄かに強くなるものですね。その反対に誰からも当てにされなくなって人間はいままでの力すら失ってしまうもののようです。
停年退職者が今までの仕事をしていたのに、定年になった途端給料が半分になったのは、法の下に人間は平等でなければならないと憲法の謳ってあるから、人間の尊厳を傷つけられた。といって訴訟しそれが裁判所に認められた判決が昨日でました。
同じ仕事をしながら停年ということを境に給料が半分になったということは、其の人のプライドがゆらさなかったのでしょう。
人間は当てにされて仕事に遣り甲斐を感じる事の具体的な事例として判決がでたのですが、やはり当てにされることは人間はやる気も湧くもののようです。
誰からか当てにされるということは、その人がその仕事に必要とされているからといえるからなのです。
自分は会社で、地域で、家庭で当てのされているか?を時々考えてみると生き甲斐も生まれ、次の仕事も何をやるべきか?と目的が出てくるものですね。
自分の仕事で具体的に誰に当てにされているか?を知り、それは自分の何について期待されているか?を知ることは、日常の生き方に大きく変化するか活動となる。これは間違いないといえそうです。
それぞれが、今の仕事で期待と当てにされていることで日常の生き方が生き生きとしてくるのではないでしょうか。
これがやる気のなる自分を創る一番の近道かもしれません。
人間は誰でも天才的な能力を秘めているもので、その良い能力を引き出すことは自分自身でできるものなのです。

第5720号 日々新聞  2016年5月18日(水)
その気になること、とは
私たちがその気になるときはどんな時でしょうね。自分が決めた楽しいことを考えたとき、それから自分も気付かなかったことを人から褒められたとき、自分は当たり前だとおもってやったことを、社長や上司、先生、親など、お客さんから「有難う」から「あんた凄いね」などと言われたが、「僕ってそんなに期待されていたのか」と気付いたら、やる気と自信がついたことを誰も経験したことがあるとおもいますね。
どんなに良い先生が「これをやったら賢くなるよ」など言われてもなかなかやる気はおこらないものですが、なんでもないと自分では思い、好きなことをやっていたら、思わぬ人から褒められると、「俺でもそんなに頼りにされていたのか」と言う気持ちになるものです。
人の役に立つことをしてそれが認められたとき、「俺もまんざらでなかったのだな」と思った経験がだれにでもあるものです。
わたしたちは普段は自分の能力を当たり前と思って動いていますが、どんな小さいことでも必ず人の役にたっているものです。
それを自分ではあまり考えないために自分の役割を低くみる習慣になっているようですね。
自分は毎日どんなことで人の役にたっているか、ということを時々考えてみることは非常にやる気をだすことになるものです。
人を褒めるということも協同で仕事をするときにも大切なことで、自分が褒められたときと同じ感激を人や仲間も思うものです。
褒めるということは、感謝の気持ちも伝わるものですから、先輩が褒めてくれたら、素直に、僕はそんなに良いところがあったのか、と自信を持ち、そして、其の「感謝の気持ちを相手に伝えることでお互いの尊敬と信頼」が生まれることになるでしょう。

第5721号 日々新聞  2016年5月19日(木)
物事は良い面の中にマイナスの要素も含まれているもの
私たちは物事にたいして、だいたい自分のおかれた立場により、困難であるか、容易であるか、という自分が処理するときに自分の可能性の条件からして、それに困難か容易であるか、そして重要かどうかも決めてしまいがちなのです。
自分が出来ることと、物事の重要度というのは関連が無いのに関連させて考えるものです。
自分の能力と物事の重要度ということは次元が違うのに当事者は同一に考えてしまいがちなのですね。
物事には良い面と悪い面があることも知っておくことは大事ではないでしょうか。
物事や人の性格なども良ることを強調し、あたかも絶対に良い面だけの性質とみがちであれば、逆に悪い面ということを頭に入れたがらないものです。
それはそれなりに良いのですが、その物に含まれている悪い面が出てきた場合は、大変失望してしまうものです。
ですから良い面で選択することだけ考えていると、逆の性質が表にあらわれた場合は、落欄も大きくなるもおです。
物事には良い面とマイナス面があるものと考えて行動することであれば失敗したとき、大きな失望ということがおこらないものです。
このような考えを物を見るときに心掛けることを科学的な物の見方、考え方というものです。
それには、昔から専門バカになるな、などという諺が残っているのです。
そして、何事にたいしても、客観的に(自分の好みではなく)みることが希望を失うことのない考え方というのです。
自分が失敗した時のことを想い出してみることでこのことが良く分かると思います。


第5722号 日々新聞  2016年5月20日(金)
人の真似をするから苦しくなる 所ジョージ
どうも人間は人の真似をすることが良いことにように思いがちではないだろうか?人の真似は簡単なようでもそのまま真似しても全て良い方向の進むとは限らないものですね。
真似されることをした人、その成果までには幾多の努力をしてたどりついたはずですから、その努力と苦労を省略して真似しても精神まではなかなか解らないために、自分の技に全てとりいれられるとは言えないのではないでしょうか。
本当に理解するまでには、自分もその成果がでる過程を知ることと、同じような体験がなければその時だけの成果になるものです。
だけども真似をしないよりも真似はしたほうが良いのにはかわりはありませんでしょう。
所ジョージさんが言っているのは本当の事を知るためには、同じような努力と苦労をすることだといっているようです。
真似してもそれに付随することまではなかなか理解するのに難かしいものです。
真似することのもう一つの意味はとかく表面だけを真似することになりがちなため、実力が伴わないので見せかけになるので、周囲から矛盾を指摘されがちなのです。ですから真似は背伸びとして周囲にみられがちなのです。背伸びは自分の矛盾になり人々からみすかされがちなのです。
真似をして苦労した経験もみんなあるものですが、その苦労というのは、実力のない背伸びから悩みなのですね。やはり物事は自分が考えたことを貫いて、その補完の為に真似することで真似の効果も自分の物になるということではないでしょうか。

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by akinishi1122 | 2016-05-19 09:37 | 社内新聞 | Comments(0)

日々新聞

第5707号 日々新聞  2016年4月22日(金)

新らしき事白で始り(804)脇坂勝幸

私達の日常で同じことをやっているように見えますが、何一つ昨日と同じものはないのですね。ただ自分が気付いていないだけで、時間と場所、空間が違えば、何一つ同じものはないものです。

このことを気付くことで、毎日が新鮮になり、そして物事に対しての判断と決定がほかならぬ自分が決める立場にいるということといえるのです。

自分の毎日を自分の意思できめるということはなんと素晴らしい人生ではないでしょうか。

物事を他人が決めた方向で動くことは窮屈であるし、力も入りにくいものです。物事に対する取組に自分の意思がどれだけ入っているか?でその仕事にたいする情熱も違ってくるということをわたしたちは沢山経験してきました。

自分が決めたことにたいしては情熱が湧き、そして苦労というものも感じないものだということも経験してきました。

仕事に情熱を持つというとき、いかに自分の意思が動いているかによって仕事にたいする楽しみも違ってくるものです。

そして仕事に対しての関心と喜びも湧いてくるものです。そしてその成果も自分の知的財産になるものです。

わたしたちの会社は創業以来たえず新しいことに挑戦してきたという歴史であるのです。この輝く伝統によって今日にいたっているのです。

毎日が新しいことであることを認識することで創意は生まれるものでしょう。

物事に対して創意ほど楽しい、やり甲斐が出る事は有りません。

私達の日常は毎日が白紙の上に自分の意思を描くことなのです。これこそ貴方をあなたらしい人間に創りだしていくものです。そして会社にとつてもそれを期待しているのです。


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by akinishi1122 | 2016-04-22 05:16 | 社内新聞 | Comments(0)

講演の感想

お便りから

香川県観音寺市 三宅産業株式会社 会長 三宅昭二 2016年1月13日

宮崎さんへ

このたびは貴体調のすぐれない中を、遠路観音寺までお越いただきありがとうございました。

宮崎さんのご講演については、私共の予想を遥かに超えて社員の反響が深く大きく、本当に来て話て頂いてよかったと喜んでいるところです。

 まる一日間の研修はすべてテープにおこして「経営指針書つくりにむけて」と題して1冊にまとめています。出来上がりましたら一番に宮崎さんにお送りいたします。

 とりあえず感想文のコピーをお送りいたします。印刷の都合で75名分しかありませんが私は一通り全部目を通しています。

  1. 70歳でケンブリッジ大学へ語学入学され80歳まで全世界64カ国を独り旅されたことに対する驚きとそのバイタリーに感動したこと。

  2. コンプレックスは誰でももっている。天下の東大の、その教授がコンプレックスをもっている事を知った。しかしコンプレックスをマイナスと思わず、プラスに考えること。開き直って行動することが大事だ。それが成功につながっていくといわれた事が最も印象に残った。と大多数の者が書いている。 

  3. 人のマイナスを上げつらわない。人を褒めること、また自分も褒めること、が成功につながる。と気付いたこと。

  4. 人は一人ひとりみんな違っていると太田先生は言われている。一人一人の価値は国家予算以上の値打ちがある。とい言われた.等々…ご覧ください。

    物の見方考え方について深い討議をした事が少なかったので、コンプレックスの事は大変良い勉強の材料になったと息子も云っているところです。

    いずれにしても、宮崎さんの深い思想、哲学があるから、そのお話も社員教育になるのだと思います。ありがとうございました。又あらためて来て頂きたく存じます。親友としての絆を深めあいたいと思います。奥様にもよろしく。

    同封の新聞は17面に「人間らしく生きる」の紹介記事。今日社員から云われて気付きました。今朝から10数件電話が入りました。昔当社にこられていた銀行の支店長。コスモ石油の女性事務員さん。二八会(同窓会)の女性。青年団OB会の友人.観一同窓会の先輩女性。同友会の友人…等々です。京都の(金光?)堂書店からも問い合わせがありました。

    「同友会かがわ」は前月12月号です。

     金毘羅宮参拝記念の写真も同封いたしますが、こちらはブレていてできがよくなかったので申し訳ないと、写真屋さんがお金を返金のうえ菓子箱までいっしょに送ってくれました。そのいわく付のものですが記念にお送りいたします。妻や娘からもよろしくと申しております。体調の一日も早く回復されます事を祈ります。

    2016年1月13日               三宅昭二

    株式会社三宅産業   社長 三宅慎二

拝啓 寒中のみぎり、宮崎会長様にはますますご健勝のこととお喜び申しあげます。

先日は、ご多忙中また遠路にもかかわらず、私共の一日研修に有意義なご講演を賜りましたこと、誠にありがたく心よりお礼もうしあげます。

 さて、会長様より「70歳の留学、80歳で64カ国の一人旅」という演題でご講演を賜り有難うございます。ご講演の中で、人はそれぞれ一人一人違う(オンリーワン)のが当たり前である。よって抱いているコンプレックス=誇り(劣等ではない)を自覚し、本心で行動すれば、おのずから人は変わることができる。人は失敗を重ねることによって大きく成長したのである、決して失敗を恐れてはいけない。人間一人一人の値打ちは国家予算の92兆円より高い。など、人はどう考えどう生きていくべきかのたくさんの貴重な示唆を戴き、社長・会長をはじめ社員一同、新しい経営指針書の作成は勿論、この感動に共感し、これからの仕事や人生の大いなる糧とさせていただきます。これを機会に、今後ともご助力ご指導を賜ります様よろしくお願い申し上げます。

2016年1月12日

敬具

 社員一日研修を終えての感想

三宅産業常務取締役 三宅昭彦

午前中に聞いた宮崎会長の講演で英語を勉強する、前から留学をされたそうで、並外れた行動力だと思うが、ご本人は本心で行動すればいいだけだと事ともなげにおっしゃっていたのが印象的だった。

宮崎会長は特にコンプレックスについて多く話されたが、その中で「人は誰でもコンプレックスがあるが人と自分はできる種類が違うのだから、自分の特徴をしっかりと認識し、それをプラスに変えなければならない」と語られた。非常にユニークユニークで克前向きな考え方で、見習わせていただきたい。

先日営業会議の中で当社のアピールポイントをだしあった。合三見積で競合になった時の対策からではあったが、我々の強み特徴を考える良い時間になった。コンプレックスとは逆の話だが、自分達にしかできないこと、自分たちのできることを知っておくことが大事なのだと思った。

メンテサービス  池上由奏

今日の一日研修を受けて、まず午前中の宮崎会長の話を聞き「自分の人生と仕事について考える」ということについて討論し、自分に自信をもて仕事をして行くことだ。一人一人に価値があって個人の能力を発揮していかなければならないと思った。

 また自分ができる範囲を超えて自分の仕事を増やした資格に挑戦し知識を増やしていかなければならないと思った。

家庭の面では、仕事だけの一日でないように、うまくバランスをとりながら生活していかなければいけないと改めて感じた。

工務管理  石原敬太

昨年の研修には仕事の都合で出席できず、今回が初めての出席となりました。

宮崎会長のお話では、チャレンジすることへの大切さを学ぶことができました、「自分には無理」や「そんなことはできない」とやっていないのに諦めることがあります。しかし挑戦してみなければ、できることもできないままになります。失敗することで成功することのきっかけを作れます。またコンプレックスを、それとは思わないことも学びました。コンプレックスを悪いものとしてでなく、特徴として長所として考えるべきだと気付きました。それを武器として自分を価値のあるものとして生かさないといけません。身分や立場に縛られている今の日本社会では、それが求められているのではないでしょうか。


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by akinishi1122 | 2016-02-10 13:04 | 社内新聞 | Comments(0)