5月の社内新聞

第5712号 日々新聞  2016年5月6日(金)
日本国憲法は世界の宝です
日本の憲法が出来たのは1945年8月15日ポツダム宣言という戦争をしている相手国のアメリカ、中国、イギリス、ソビエト、フランス、などが作成した戦争後の処理をし、平和国家をつくることを受け入れ、軍隊を持たない、戦争の過ちをくりかやさないことを約束して、戦争が終わったのです。
どんなことを誓って受け入れたかというのは、その後の憲法の精神である憲法前文に誓いとして世界に誓約したのでした。
その前文とは
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすると決意」したのです。いままでの戦争は国民が全く知らないままに戦争を始め、その犠牲になったのは、日本国民の青年であり、最後にちかくなると一般国民の年寄や婦人、子どもまで直接の爆撃や原爆などで皆殺しの状態で犠牲になったのです。
戦争を起こすのは時の政府であり、その政府を監視するという立場を新しい憲法で決めたのです。
権力が政府にだけが持つと一部の政治家で戦争を始めるから、国民が政府を縛る制度を憲法に書きこんで約束したのです。
戦争というのは、「今から外国に戦争を仕掛ける」とか外国の領土を奪う。などとはどの政府も言わないものですが、政府を支えている軍需産業などが戦争することで勢力を拡張するのが常なのです。その原因を知っていますから、国民が政府を監視し戦争させない、という決めごとの憲法をつくったのです。
国民が政府の暴走を止めるという考えは16世紀のフランス革命やアメリカの独立宣言にとりいれられて、進んだ国は国民が主権者であるともう300年も前から普通の考えになっていたのです。
いま自民党の憲法改定案によると、国民一人一人を尊重している今の基本的人権をまた戦前の様に逆に政府が国民を縛る憲法に変えることと、戦争を禁止している憲法を戦争が出来る国にしようと計画されているのです。
今度の7月の参院選挙でその方向で選挙に掲げるといっているのですから、いっそう憲法問題に関心をもたねば、ならない時期にきているのです。


第5713号 日々新聞  2016年5月9日(月)

1.集団的自衛権はなぜ違憲なのか
 6月4日の憲法審査会で、参考人の憲法学者が集団的自衛権行使容認を違憲と断じた。このことの影響は大きく、政府・与党は釈明に追われている。もっとも、集団的自衛権行使容認違憲説は、ほとんどの憲法学者が一致して支持する学界通説である。まずは、「なぜ学説が集団的自衛権違憲説で一致するのか」確認しておこう。

 日本国憲法では、憲法9条1項で戦争・武力行使が禁じられ、9条2項では「軍」の編成と「戦力」不保持が規定される。このため、外国政府への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国政府への武力行使をしようとするなら、9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある。

 「9条の例外を認めた規定はない」と考えるなら、個別的自衛権違憲説になる。改憲論者の多くは、この見解を前提に、日本防衛のために改憲が必要だと言う。

第5714号 日々新聞  2016年5月10日(火)
安保法(戦争法)は何故憲法違反なのか
 憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。
 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。
 では、集団的自衛権の行使を基礎付ける憲法の条文は存在するか。これは、ネッシーを探すのと同じくらいに無理がある。国際法尊重や国際協調を宣言する文言はあるものの、これは、あくまで外国政府の尊重を宣言するものに過ぎない。「外国を防衛する義務」を政府に課す規定は、どこにも存在しない。
 また、外国の防衛を援助するための武力行使は、「防衛行政」や「外交協力」の範囲には含まれず、「軍事」活動になるだろう。ところが、政府の権限を列挙した憲法73条には、「行政」と「外交」の権限があるだけで「軍事」の規定がない。政府が集団的自衛権を行使するのは、憲法で附与されていない軍事権の行使となり、越権行為になるだろう。
 つまり、日本国憲法の下では、自衛隊が外国の政府との関係でなしうる活動は、防衛行政としての個別的自衛権の行使と、外交協力として専門技術者として派遣されるPKO活動などに限定せざるを得ない。
 以上のように、個別的自衛権すら違憲と理解する憲法学者はもちろん、個別的自衛権は合憲と理解する憲法学者であっても、集団的自衛権の行使は違憲と解釈している。憲法学者の圧倒的多数は、解釈ロジックを明示してきたかどうかはともかく、集団的自衛権が違憲であると解釈していた。さらに、従来の政府も集団的自衛権は違憲だと説明してきたし、多くの国民もそう考えていた。だからこそ、集団的自衛権の行使を容認すべきだとする政治家や有識者は、改憲を訴えてきたのだ。

第5715号 日々新聞  2016年5月11日(水)
コンプレックスについて考えてみませんか
先ず人間である以上コンプレックスの無い人間は一人も存在しないと考えて間違いないようです。
人間は生きていくために、自分の環境を自分に都合よく、生活しやすいように改革、改善してきたのです。そして自然や人間同士の助け合いや利用しあい、協力しあいして、先ず家族、集落をつくることを覚えましうた。それは他の動物と違い身体に武器となるものがなかったからです。これがはじめのうちの他動物や自然にたいする弱さ(初期のコンプレックス)があったのです。ライオンや虎、狼、などは自然の外敵でした。それを防備するためにそれらの猛獣から身を守ることは、消極的なコンプレックス防止策として、居住する住まいに安心して生活するための住まい、囲い塀、堀などを考えたものです。
そして、食べるために定着して雨、風、寒さを防ぐことを人間は、衣類としての毛皮を獲り、寒さに対して身を守る衣服を考えねばならなかったのです。最初は初歩的の動物の毛皮を衣類にあてることも発見ですね。
これは寒さに対するコンプレックスが考えつかせたものです。
それからいつでもだれでも毛皮が手にはいることはないですから、集団で毛皮の動物を捕獲するという協同することを考えだしたのです。これはいつでも手に入らないという困難(コンプレックス)に対して人間は猛獣や毛皮を捕獲するために協同するという違った、進歩した考えがみつけだしたのです。
ここれは、一人では獲得できないというコンプレックスからでた協同することで生きていくことの発見です。人類文化が他の動物に無いものが生まれたのですね。
このように生きていくためには、コンプレックスを克服するための新しい文化、人間の協同する文化を自分たちでつくりだしたのですね。
このように、人間が家屋を創り、定着することで、共通の情報の知識を集団で生み出したのが協同生活、協同の住まいで人々が定着することで、弱い人間が他の動物に対抗し、守り、征服する知恵を生み出したのですね。
新しい知恵を生む元になるものは全て自分の弱さ、それへのコンプレックス
が新しい知恵をつくりだしてきたのでした。コンプレックスは新しい物事を生み出す重要な財産といっていいのですね。

第5716号 日々新聞  2016年5月12日(木)
コンプレックスの大きさは目的の大きさと等しい
人間は絶えず現状を変えて少しでも良い生き方や生活を望むものです。ですから現状を変えて少しでも良い生活をしたいと絶えず思うものですね。それが人間であり、もっとも人間らしい姿なのです。
ところが、日本には武家社会という社会システムが300年ぐらい前から階級社会である士農工商という社会システムがつくられたのです。そして身分制度でその身分に相応しい生活、や文化を尊ぶという社会になったのですね。
その階級に相応しい文化を強制されたのです。武士は武士の道徳という忠君思想として階級の上の者には従うという考えで、戦においては上意に従うということが美徳として、階級制度を維持してきたのです。
また農業は封建時代の税金である米の生産にたずさわる農民が武士の次に階級として位置ずけられたのでした。何故農民の地位が高いかといえば、税金貨幣の価値を米で決められていたから、その生産者はいわば経済をささえる役割をしていたからなのですね。
実際は金銭、貨幣を生み出す階級は工業者や、商売人だったのですが、土地を管理し、大名の財政を支えるのは米の石高だったため、農民が土地を管理しそこから生産物を税金として納めたり、万一戦が始まると、武士の補充兵役や、築城、道路、河川工事に役立つのが農民だったからなのです。
だがこの農民の税金として支払う米では市民社会では不便で貨幣としての価値が米は薄れてきたのです。
米に代わる貨幣を自由に手に入れる商売人がお米のかわりに貨幣を流通させて、欲しい物は米でなく貨幣に段々かわってきたのでした。
商業資本が力を持つようになったのは、大名に米を担保に貨幣を貸して、大名や武士たちのお金を貸す流ができてきて、幕末になると、商業資本の両替屋が大名以上に力をもつようになったのです。
これで実際の幕府の力は統制がきかなくなり、明治維新として資本主義、産業資本家が政府まで動かす時代になったのです。
実力をもった産業資本家は大名や皇族に娘を嫁がせ、階級のコンプレックスをお金で買うという動きの流れになってきました。
このように意識と実力の差のコンプレックスは時代の流れによって価値観、コンプレックスもコンプレックスでなくなることにもなるものです。
コンプレックスはその時代や環境によってドンドン変化するものですからコンプレックスというのは希望が克服されたら、エネルギーの源にさえなるものです。

第5717号 日々新聞  2016年5月13日(金)
コンプレックスは最も人間らしい
世の中の偉人といわれている人達の伝記をみれば、何か必ずコンプレックスを持っていることが共通ですね。誰にでもあるコンプレックスを次に生かすためにどのようにしてバネにしたかの違いが普通人とちがうところのよういです。
松下幸之助は家が貧乏で学校も小学4年までしか行けなかったことをコンプレックスとして持っていたのでした。それに身体が弱くて体を使う労働ができなかったのです。ですから世間では普通につきあうことができないというハンデーをもっていました。学門がないということは、人に聞くことが当たり前ということだったので、解らないことは知っている人に聞くという習慣が恥とおもわず当たり前だったのですね。知る人に聞く、そして感謝をするという日常は幸之助の性質となったため、聞かれた人も喜ぶわけで、知人がたくさんできるという環境もできたのです。
身体が弱いということは、仕事をする仲間にお世話になる、人に頼るということを当たり前の生活になったのです。
彼にとってはコンプレックスを卑下するということではなく、他人を尊重し学ぶこと、頼ることとして協力者を創ることに使ったのでした。
コンプレックスの反対は優越観となりますが、優越感というのはそれを表現すると、人々は快くおもわないものです。
優越感を持つことは悪いことではありませんが、人にひけらかすということで、人々協力は得られないものです。自分で持つことはエネルギーを注ぐことに役にたちますが、人々はそれぞれ個性と優れたものをもっているのですから、人々と協力することに妨げになるような優越感は外に向けては出さないほうがベターかもしれませんね。


第5718号 日々新聞  2016年5月16日(月)
今日からでも一ページ遅くない  脇坂勝幸
人間の考えることはどんな人でも大方同じ事を考えものですね。人と自分が違うのは行動するかしないかというのが違うだけで、人が成果をだしたら、後であんなことだったら僕でも考えていたことだったのにと、残念がることが誰でも経験すたことがありますね。その通りなのです。だがその行動がなかなか出来ないのは、行動の前に失敗したらどうしょ!と誰でも思うものです。
一方成功することが多い人は、その考えの中に「やって見なあ解らん」とい気持ちの持ち主が多いようです。
このやってみなあ解らんということを会社の行動方針にしているのがサントリーという会社なのですが、この考えは今から200年も前の創業者が言った言葉ですが、現代の経営ばかりでなく全てにもこの精神は通用するのですね。
なにも難かしく考えて作ったことばではなく、毎日の経験を身につけた自分の言葉から出来た考えなのですね。
昔から、「人には沿ってみよ。馬には乗ってみよ」という年寄の言葉を聞いたことがあると想います。
人を知るためには、外見だけでなく、沿ってみる、話してみる、ことで自分が思っていた人でなく、素晴らしい生き方を聞きだすことができた経験も皆さんあるとおもいます。馬には乗ってみよ、という言葉も馬が人間の思いをどのようにしたら理解してくれるか?も自分が乗ってみなければ馬の性質もわからないもので、人間の思うように動いてくれるためには、教えるコツを乗ってみて初めて理解できるというものです。
頭で考えるだけではなく、一緒に作業をする行動が物事の性質が理解できるというものです。
ですから、自分が考えることは行動してみて、その考えが正しいものかというこということが結果として表れるので、その物の認識が正しいか、間違いだったかということが結果としてでるために、先ず思ったことは行動することで正しい認識ができるものですね。
考えを行動に移す事は遅すぎるということはないのです。思ったことは先ず行動して自分の認識をひとつずつ増やしていくことが優れた人と外部から見えるものです。

第5719号 日々新聞  2016年5月17日(火)
当てにされてやる気になる
人間は自分が当てにされていると知ったとき俄かに強くなるものですね。その反対に誰からも当てにされなくなって人間はいままでの力すら失ってしまうもののようです。
停年退職者が今までの仕事をしていたのに、定年になった途端給料が半分になったのは、法の下に人間は平等でなければならないと憲法の謳ってあるから、人間の尊厳を傷つけられた。といって訴訟しそれが裁判所に認められた判決が昨日でました。
同じ仕事をしながら停年ということを境に給料が半分になったということは、其の人のプライドがゆらさなかったのでしょう。
人間は当てにされて仕事に遣り甲斐を感じる事の具体的な事例として判決がでたのですが、やはり当てにされることは人間はやる気も湧くもののようです。
誰からか当てにされるということは、その人がその仕事に必要とされているからといえるからなのです。
自分は会社で、地域で、家庭で当てのされているか?を時々考えてみると生き甲斐も生まれ、次の仕事も何をやるべきか?と目的が出てくるものですね。
自分の仕事で具体的に誰に当てにされているか?を知り、それは自分の何について期待されているか?を知ることは、日常の生き方に大きく変化するか活動となる。これは間違いないといえそうです。
それぞれが、今の仕事で期待と当てにされていることで日常の生き方が生き生きとしてくるのではないでしょうか。
これがやる気のなる自分を創る一番の近道かもしれません。
人間は誰でも天才的な能力を秘めているもので、その良い能力を引き出すことは自分自身でできるものなのです。

第5720号 日々新聞  2016年5月18日(水)
その気になること、とは
私たちがその気になるときはどんな時でしょうね。自分が決めた楽しいことを考えたとき、それから自分も気付かなかったことを人から褒められたとき、自分は当たり前だとおもってやったことを、社長や上司、先生、親など、お客さんから「有難う」から「あんた凄いね」などと言われたが、「僕ってそんなに期待されていたのか」と気付いたら、やる気と自信がついたことを誰も経験したことがあるとおもいますね。
どんなに良い先生が「これをやったら賢くなるよ」など言われてもなかなかやる気はおこらないものですが、なんでもないと自分では思い、好きなことをやっていたら、思わぬ人から褒められると、「俺でもそんなに頼りにされていたのか」と言う気持ちになるものです。
人の役に立つことをしてそれが認められたとき、「俺もまんざらでなかったのだな」と思った経験がだれにでもあるものです。
わたしたちは普段は自分の能力を当たり前と思って動いていますが、どんな小さいことでも必ず人の役にたっているものです。
それを自分ではあまり考えないために自分の役割を低くみる習慣になっているようですね。
自分は毎日どんなことで人の役にたっているか、ということを時々考えてみることは非常にやる気をだすことになるものです。
人を褒めるということも協同で仕事をするときにも大切なことで、自分が褒められたときと同じ感激を人や仲間も思うものです。
褒めるということは、感謝の気持ちも伝わるものですから、先輩が褒めてくれたら、素直に、僕はそんなに良いところがあったのか、と自信を持ち、そして、其の「感謝の気持ちを相手に伝えることでお互いの尊敬と信頼」が生まれることになるでしょう。

第5721号 日々新聞  2016年5月19日(木)
物事は良い面の中にマイナスの要素も含まれているもの
私たちは物事にたいして、だいたい自分のおかれた立場により、困難であるか、容易であるか、という自分が処理するときに自分の可能性の条件からして、それに困難か容易であるか、そして重要かどうかも決めてしまいがちなのです。
自分が出来ることと、物事の重要度というのは関連が無いのに関連させて考えるものです。
自分の能力と物事の重要度ということは次元が違うのに当事者は同一に考えてしまいがちなのですね。
物事には良い面と悪い面があることも知っておくことは大事ではないでしょうか。
物事や人の性格なども良ることを強調し、あたかも絶対に良い面だけの性質とみがちであれば、逆に悪い面ということを頭に入れたがらないものです。
それはそれなりに良いのですが、その物に含まれている悪い面が出てきた場合は、大変失望してしまうものです。
ですから良い面で選択することだけ考えていると、逆の性質が表にあらわれた場合は、落欄も大きくなるもおです。
物事には良い面とマイナス面があるものと考えて行動することであれば失敗したとき、大きな失望ということがおこらないものです。
このような考えを物を見るときに心掛けることを科学的な物の見方、考え方というものです。
それには、昔から専門バカになるな、などという諺が残っているのです。
そして、何事にたいしても、客観的に(自分の好みではなく)みることが希望を失うことのない考え方というのです。
自分が失敗した時のことを想い出してみることでこのことが良く分かると思います。


第5722号 日々新聞  2016年5月20日(金)
人の真似をするから苦しくなる 所ジョージ
どうも人間は人の真似をすることが良いことにように思いがちではないだろうか?人の真似は簡単なようでもそのまま真似しても全て良い方向の進むとは限らないものですね。
真似されることをした人、その成果までには幾多の努力をしてたどりついたはずですから、その努力と苦労を省略して真似しても精神まではなかなか解らないために、自分の技に全てとりいれられるとは言えないのではないでしょうか。
本当に理解するまでには、自分もその成果がでる過程を知ることと、同じような体験がなければその時だけの成果になるものです。
だけども真似をしないよりも真似はしたほうが良いのにはかわりはありませんでしょう。
所ジョージさんが言っているのは本当の事を知るためには、同じような努力と苦労をすることだといっているようです。
真似してもそれに付随することまではなかなか理解するのに難かしいものです。
真似することのもう一つの意味はとかく表面だけを真似することになりがちなため、実力が伴わないので見せかけになるので、周囲から矛盾を指摘されがちなのです。ですから真似は背伸びとして周囲にみられがちなのです。背伸びは自分の矛盾になり人々からみすかされがちなのです。
真似をして苦労した経験もみんなあるものですが、その苦労というのは、実力のない背伸びから悩みなのですね。やはり物事は自分が考えたことを貫いて、その補完の為に真似することで真似の効果も自分の物になるということではないでしょうか。

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by akinishi1122 | 2016-05-19 09:37 | 社内新聞 | Comments(0)

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