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2000年オーストラリヤの旅

2000年5月22日 オーストラリヤ・パースの旅

朝食はバイキング、佳子は朝食は普通とらないが、バイキングだったら何でもあるから、好きな物がなければ食べなくてもいいではないか、と誘った。
パース市内観光は10時出発というので、楽な行程だ。ホテルでゆっくりできて疲れないようにしてあるのかもしれない。
ここ西オーストラリヤは冬に入った時期で、冬は別名雨季ともいうらしい。そして雨が降ったら寒くなるらしい。季節については日本と逆だ。
目覚めたのが5時半ごろだった。雨が降りだしている。ホテルは808号だから相当高いので窓から下を向いたらひどい風もあり、雨風が共にきた。
今年はまだ雨がないと言ってたのでこれが初めてのようだ。
バイキング朝食が終わる頃は大雨でしかも横なぐりのようだ。
朝食はトーモロコシで作られた小さな破片みたいなのに牛乳をかけシャブシャブにして食べる。これは信顕がよくやっていて名皿いっぱいにとった。さすがに物足りないからベーコンとソーセージを追加でとった。
佳子は果物とヨーグルトだった。部屋に帰っておにぎりが残っていたから佳子と半々にして食べる。
大雨だったので出発までにホテルで用意してくれた傘を借りる。この傘は骨が網のようにいっぱいあって丈夫にできている。日本のは直ぐ壊れる仕組みで、安いから消費材と考える創りかもしれない日本は雨の多い国だから考えられたことだろう。
ここの傘は実用的で壊れないようにしなければならないのであろう。

10時10分発で約10分ほど走ったらキングスパークに着く。ホテルからかすかに見えていた小高い丘にある。ユーカリの並木、しかも大木である。ここは数年前火事で焼けた木々がた芽をふいてきている。幹だけが黒いのだが、ユーカリは皮が焼けても中から水分を枝葉に送り再生するらしい。こんな木も珍しい。
丘の眺めは素晴らしい。スワン河と島になっている。両岸を見下ろした地形だ。記念撮影を皆でそれぞれ写して時間をかけて値打ちのある美しさだ。それに雨。うちは撮らなかった。
ハワイの海岸を思わるせるホテルと中の島をプラス河と組み合わせた感じの公園からの眺めである。
モンガー湖まで走ったらスワンがいた。アヒルの大きなものでしかも黒い。現地案内人の桑野さんが食パンをもってきていて各人が餌として与えてくれた。
すると一杯寄ってくる。アヒルの口と同じで、ぱくついてもギザギザがある程度で痛くない。直接手でやっているのは僕ぐらいだったようだ。皆やはり怖がって投げて与えている。
鴨も名前も知らない鵯ぐらいのも、カモメもいっぱい寄ってくる。
スワン河は西インド洋の潮水だから段々ンスワンはいなくなり、上流になるとモンガー湖に上がってきたらしい。
ロンドンコートという高級住宅街をバスで走る。治安が良いのだろう垣根も柵も無い。水辺に面した土地を離れた土地とは数倍値段の差があるという。やはりヨットを繋ぐだけの違いである。
オーストラリヤは日本の面積の22倍で人口は1700万、日本の8分の1、土地は西オーストラリヤ州だけで日本の7倍あるという。
エリザベス女王の代理が棲んでいる家もこのロンドンコートだ、そしてパースは兵庫県の姉妹都市だそうである。
25階建のビルができて日本の鹿島建設が建てたのだが、30%が借手がないほど不景気で停滞しているようだ。庇の着いた客室になっていて、日本にはない太陽の国にあうように建てられたのだが、個々の風俗はパーチーをよくやるが招待された人は自分の飲み物は持ってこなければならないという。招待する側はパンやサラダラダだけ。肉などバーベキューはお客持が持参するという。だから主催者も気楽のようだ。そこではあ話すのが主な目的というから、長く続クコミユニケーシヨンを楽しむということで、本当の付き合いができるのである。
もう一つ面白いと思ったのは、家は新築より古い家を買って修理して住むのが誇りというし、高くつくらしい。日本では高くつくというのは当たらないが誇りに思うというのは部分的には理解できないこともない。どうでも理解しにくい面がある。第一大土地の値段が違う、環境が違うという条件が日本と根本的に違うからであろう。
 イギリスから来たという囚人が殆どだったというから、囚人んであったということを隠そうとせず、むしろ生粋位のオーストラリヤ人としての誇りを持つ人が殆どらしい。
1850年代はここに入殖させるために罪人を国策として作るほどだったというから」今日の罪人と言う認識とは大分違うようで、彼らは被害者であったとさえ思っているからである。だからこれらの認識は歴史の批判として正当性があるのかもしれない。
 夏の暑いときで、45度で、夜は3度ぐらいに下がるというから極端である。
電車に乗る時のチケットの制度もかわっていて、買う時の2時間先の時間が刻印されて、その間は自由に乗降できるらしい。物の考えかたが、距離ではなく、時間単位で考えるというのは面白い。 またここは地震や台風がないためきわめて民家の建築が簡単だ、ブロックの積み上げに鉄筋が入っていなくてもいいらしくだから早く安くできる理屈である。
 車の通行は日本と同じでハンドルも同じ、違うのは、ナンバープレートが数字でもよし名前でもいいという。
土日しか開かれてないフリーマントル街に連れてもらった。人で賑やか、野菜果物骨董品、衣類など一杯だ、ここでカンガルー毛皮を2枚買う。僕は山歩きのお尻に敷くのによかろう。日本円にして3500円ぐらいである。
佳子はスパゲチーの掴む鋏のようなのを買っている。80セントだから安い。日本円で60円ほど、ステンレス製なのに安い。
大学生は授業料が安いから、親の援助をうけずに自ら学費を払うのが普通という。ベビーシッターや皿洗いなどで払えるぐらいの学費らしい。大部分が国立で勉強が好きな人しか行かなく試験も高校の時の点数で学課や専門が分けられる、定数よりも成績で合格人数がきまるというから、年によってアンバランスの学生数異なることがあるらしい。
僕はこれは合理的だと思う。
 学校を卒業しなければよい会社に就職できないといった日本と違うのがいい。失業しても失業保険が誰でももらえ、就職しなくっても失業保険がもらえるとはなんと国民を信用していることだろう。日本は失業中に少しでも仕事や収入があれば失業保険が中止されるというのは国民を信用してないからの制度のようだ。やたら競争意識をもやさなくても週に140ドルもらえるという。
学校は10年制で大体中学をでると親から独立する人が多いという。世間体とか生活出来んあいとか気にする必要がないから勉強しなくてもそれが生きることの妨げにならないいとは、その人々が個性て生ていけるかもしれない。
 われわれのガイドの桑野さんは高校で日本語を教えていたが、勉強をあまりしない生徒も多いので嫌になったこともあったという。
3時にホテルに帰着、それから自由行動だから、免税店の方に歩いていく。ホテルの坂を下りスワン河岸を通って街へ。今日は日曜だから殆の店は休み。20分ぐらいで商店街についた。何も買う物は無く中華料理をいっぱい買ってきた。ホテルで夕食したが余ってしまった。暑いしビールは部屋の冷蔵庫の分を飲み最後におにぎりの残りを食べたらもうお腹いっぱいになった。部屋を移動しないいのがいい。疲れがでないように6時半の床についた。こんなゆとりの旅が良い。


2000年5月23日() オーストラリア旅行(月)(2)

朝0時30分に目が覚めたのは昨夜が速かったからだ。それからトイレに2回立ち、最終は5時半だった。昨日の日記を書きはじめたが、この日記帳は僕の字がはみだしてしまい書きにくい。

2時間ちかく書き進んだところで、出発の「時間を間違えて佳子を起こしてしまった。7時15分。

モーニングコールが7時45分であった。メモが昨夜遅く部屋にいれてあったのを読み間違えて(出発だと読んでしまったのである)悪いことをしてしまった。佳子はぐっすり眠っていたのにである。

今日も朝から雨である。バイキング朝食に佳子を誘ったが食べたくないという。一人降りていったら、われわれのグループは誰も来ていない。外人ばかりだった。

外は風が強く傘さしている人が多い足も急ぎ足なのは雨風だからであろう。バナナを手に持って歩いている人がいる、日本ではこんな風景はみることがない。食事にパンは止めてコーンフレークにした。これがあっさりしていい。

9時15分ホテル出発、約15分でスアワン河観光船出航場、ここで全員の記念撮影、4~5名のゴルフを除いて全てこちらに来ている。

相互信用金庫の別のツアーがシンガポールから着いて合流した。こちらも30人ぐらいだからたいした旅行を企画してくれたものだ。

スワン河は平均水深2mというから、たいへん浅い。曇り日で風もあり雨もある。メインコースにしては、残念な日和にあった。

岸と水際との土手が石やコンクリートがなくて緑そのままがいい。日本はどこえいっても護岸がコンクリートになっているから、ここにきて自然の河に出逢えたことになる。

昨日は大雨で、水嵩が増え橋の下が通れなくなり、急遽バスを呼んで乗り換えになった。

100年前のレンガ造りの美術品を集めた家を観る。丁度長崎のグラバー邸の感じ、長崎とおなじぐらいの歴史しかないのがオーストラリアであろう。

昼食はワインの生産地で試飲させてくれた。買う人もある。僕も佳子もワインは飲間ないから感激というものはない。

夜は7時から9時までパーチー、この時初めて人々がどんな人達だか知ることになった。自己紹介するなかで、三和貿易という二〇年くらい前仕事を頂いた社長がいた。昨年僕がキューピクルを勧めた社長夫妻は知っているひとであった。それも自己紹介したから思い出だしたという程度の人だ。

このお別れパーチー中もずっと雨と風で台風のように荒れている。だからすっきりした バースにはめぐりあえなかったことになる。

今日ゴルフに行ったメンバーは雨にやられて、明日も降られたら着替えがないと言ってるひともいる。また別の人は、ゴルフ場にカンガルーがでてきてウロウロしていたから想い出になるといっている。

このパーチーが終わったら、カジノに行く人を募集していたが、大分が手を上げていた。どうも僕にカジノはなじめない。部屋に早く帰る。それでも風呂に入って寝たのは一一時になっていた。

2000年5月24日オーストラリヤ旅行(3)

8時45分オーストラリヤ自然動物園に向かう、コアラとかカンガルーがオーストラリヤだけにいるから、その動物園だ。自然に近い環境で見せるというのが本来の動物の姿が見えるのだからいいことだと思う。途中のバスで林を観ると山火事で木の幹が焦げている地域がある。殆どが過去に山火事があったという形跡があるということは、山火事が多いということであるらしい。地面は焦げているのに、ユーカラの木は新しい芽を出しているから、一過性の火事にユーカラは強いようだ。いつだったかテレビで、山火事がなかなか消えなくて1週間続いたというニュースを見たことがあるが、ここオーストラリヤは雨が少ないから山火事が多いのかもしれない。

動物園の樹木も焦げている、その時カンガルやコアラはどのように保護されているのだろう。

ガイドの桑野さんが、オーストラリヤの社会生活を説明してくれたが、夫婦は殆ど勤めていて、家事の料理は夫が作るのが多く、作らないほうが皿を洗う。また庭の手入れも夫の仕事、そして離婚率は世界で最高水準だとのことだ。社会保障が徹底しているし育児や、妻の収入も男女平等だから気軽に比較的離婚がし易いのが原因のようだ。離婚の場合の財産の分割は完全に50%という。

オーストラリヤの開拓初期の頃の集落をモデルにしたところに入ったが、歴史が浅いので建物はそんなに独特の物はなく、今でも見られる平屋である。砂金を掬う仕事場でみんなもやってみたが何も採れないから仕事の体験だけである。でも昔は河に砂金があったということである。

1時に河の上のレストランで伊勢海老の昼食、それが蒸してあるし、御飯や漬物がないからやはり伊勢海老だけでは日本料理という味も感じもでない。

3時ごろ買い物に案内してくれた。免税店の周辺でみんな買い物をしている。家はケンドーンという若者に人気があるらしいTシャツなどをたくさん買った。日本には未だないから土産には喜ばれるだろうと佳子は知っていた。

土産はこの3日間で7万円ぐらいかっているようだ。理香が餞別に5万くれていたから他に2万ぐらい買ったのだろう。

椅子座布団のコアラと、カンガルーの絵が刺繍されてある5枚、その他はコップの敷物5枚などである。理香にはペンダントでコアラがガラスの中に金でできているのが110㌦だった。信顕にはTシャツでウインドに飾ってあったのを100㌦で買った。

パース空港発22時10分

夕食はホテルの近くの中華料理店でラーメンを食べる。ゴルフ組は10人だった。


by akinishi1122 | 2016-04-17 09:50 | 旅行

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