2015年夏ヨーロッパ6か国の旅

2015年7月23日(2) 自転車でルーブル、シャンゼリゼ通りなど

ルーブルや庭の木陰に裸婦の像 自転車でルーブルの広大な庭の像をじっくりと観てまわる

やはり時差でこちらの朝2時に目覚めてしまった、だから昨日の日記を書く。書き終えてまた眠って起きたのが5時である、少々お腹が空いたので朝食でもと外にでて聞くと6時ではスーパーは開いてないという。だからそのまま散歩になった。すぐ近くにセーヌ河がある。橋から見ると堰き止められた5分の1ぐらいの川幅から滝のように4mぐらい水が激しく落ちていて、その横が運河になり丁度そこに3隻ぐらいが入るところだった。入り終わると大きな扉がゆっくり閉まり、前方の扉が開いて上の河の高さになって船は前進していく。大きい河はこのようにして川上に上っていくのだな、とこれはケンブリッジにいたときも規模は小さいがのどかな風景だと眺めて楽しんだものだ。

入堰する船が結構大きくおそらく土砂などを積むのであろう、底が深く、大型トラックの200台以上の土砂が入る深さの容量があるのが3隻も上の川に上るのだから経済効果に貢献しているのだな、と感心して動きだすまで眺めた。

セーヌ河のここの幅は500mぐらいであり、豊かな水の眺めは心を癒してくれるものだ。

橋を渡ったたもとに立飲み、立食いのレストランがありカウンターに立って朝食のパンやコーヒーを飲んでいる店があったので、朝食をこの人たちと並んでカウンターについた。

朝の6時代だから早朝の仕事をする人たちが次つぎにカウンターに立つ。そして半分ぐらいの人はコーヒーだけでたちさっていく。その庶民の雰囲気にしたることができて気持ちがいい。肝心のレストランはまだ始まっていないが、レストランの席の方は黒人の掃除青年が忙しくモップ掛けをしている。

ここまでに歩いて出会う人々は殆どが黒人であり、朝の開店の掃除は黒人の労働の場所のようだ。それに地下鉄の乗客の3割ぐらいが黒人であるのもパリで気がつくことである。フランスはアフリカにたくさんの植民地をもっていたから、アフリカの人々はフランス語が喋れるから仕事が多いのであろうか。

 7時ごろホテルに帰り、パソコンの接続を頼んだら、難なく接続してくれたので、昨日のカウンター嬢は詳しくなかったということらしい。これで胸のつかえがとれて早速昨日の日記を家に送信することができた。

今日は何から始めようかと考えるがカードのJCBに行きそこで何かツアーはないか聞くことからぐらいだろうと出かけた。すると今いるホテルは相当パリの郊外の端にあることを知った。顕が列車で移動しやすくて克安く、パソコンが使用できるという条件で探しあててくれたらしい。

地下鉄でピラミッド駅がJCBに近くだし、日本料理店が多い駅なので隣の女性に聞くのだが、なかなか見つからないようなので、オペラ駅だったら簡単に探してくれたのでそこで降りることにした。

パリは道がメイン駅から放射状に流れに会ったのでスマートホンでJCBを探してもらいやっとたどりつけた。何回も来ているが忘れてしまっていたのだ。

JCBではトイレを借り、冷たい水をいただいて、雑談したがツアーは僕が行ったところばかりの紹介だったから、自分で列車でそれこそ行き当たりばったりで探すことにした。

近所の日本食堂の「十時や」で昼食弁当の「鮭弁当」にした。野菜のシンギクや、卵やき、味噌汁もつき10、20ユウロでなかなか美味しい。ホテルに冷蔵庫もあるので三角海苔まきおにぎりを4個、それにかき揚げフライを2枚買った。フランスパンの店でフランスパンに焼肉を挟んでもらったが店に忘れてしまっていた。これが今回の第1番目の失敗である。

地下鉄の駅売店に果物があったのでバナナ2本、桃2個をかったら4ユウロである。その桃が日本のと同じ大きさなのに、硬いし、美味しいのだ。日本だったら1個300円以上するのに全部で4ユウロとは日本円にしたら800円以上のはずなのだが、日本の3分の1の値段だから果物は安い。バナナは皮も身も硬く美味しくもないので2本とも捨てた。

パリには貸自転車が道に沢山目につくから今日は借りて市内見物することにした。

管理人がいないので、返しに来た青年に利用の仕方を聞き乗ることにした。管理のためであろう、現金での支払いはなくクレジットかーどで、どこでも次の貸し出しの場所で時間で精算されて、乗り捨てができるから便利である。

近くがルーブル美術館だったので、広大な庭にたくさんの彫刻の裸婦があったので全部まわるのに自転車は便利であった。やはり昼ともなると暑くなるので歩いてではとても回れない庭を全部まわり写真に収めることができた。やはりえらい人びとであるが、日本人らしい人にはついに出会うことがなかった。円が安くなり旅がしにくくなったのがここでも実感として知ることになる。

その次がコンコルド広場である、ここはフランス革命のとき王や貴族たちが革命軍によって首を切られ殺害の象徴的な場所、400年も昔の話だが、この革命は市民のブルジヨア革命で支配は長くは続かなかったのは、やはり支配者であるブルジアが企業や商店主などで団結しにくい階層だったからであろうが、絶対王政を民衆が倒したということでは革命に歴史に残るもので、ここから、これではいけないと空想的社会主義生まれる同機にはなったし、いまだにその時のフランス国歌は「ラ・マルセーユ」として理想を謳いあげているのである。サンシモンが後の社会のあるべき理想を考えだしたのは現在にもその精神が流れているものだ。

ここからシャンゼリゼの通りを登がベンチが沢山あるがその開くのを待って休憩する。

丁度隣にモーリタニヤの35歳のシャンジェリゼのストランでセフをしている青年が昼の過ぎに休憩で隣にきたから会話になり、僕のケンブリッジ留学の時クラスメートが6人もモーリタニヤだったし、石油大臣、政府官僚、生物学教授、地質学者らがみな女性だったこと、そしていつも彼女らとロンドンに遊びに行ったことなどはなし、ラクダの肉を食べていることも初めて知ったことなど話てきかせた。彼も2回結婚したが、いずれも別れてここにきていて、シャンジェリゼ通りのそこのレストランでコックをしていること、名前がGANDEGAというからあなたの名前を日本語で書くと元出我といい、日本での意味は元の自分の性格をいつも大切に出しなさいという意味だから良い名前だと大切に自分の名前の意味を実行するようにしてください。と言っておいた。

今夜メールしてくるとも約束してくれた。

やはりシャンジェリゼ通りのベンチにいた日本人風のカップルに話かけたら、フィリピン人で今回はハネムーン旅行で2週間のヨーロッパらしい、夫は35歳でフィットネス教室の教師で妻はフィリピン航空のスツアーデスらしい、彼女は日本にもたびたび行くし、この旅行はもっぱら彼女の案内でまわっているという。彼の名前はMARUKOというから、漢字で丸子と書き、漢字のペンネームもして覚えやすいと手帳に書いてくれというので書いてやった。彼女はINANというから「以南」と書き、あなたは日本の以南に住んでいるから僕は忘れることがないだろう。と楽しくはなしあった。

凱旋門の前の日本女性がよく持っているカルチエ?の本社前は行列の入場待ちしているが、入り口では荷物に検査をするほど神経を使っている様子だ、前に来た時はなかったのにやはり今のテロが世界をかけめくっているからであろうか。

凱旋門の近くで貸自転車を返したのが4時半、帰る地下鉄で最寄りの駅の別を教えてもらった終点で降りてみた。すると若い娘さんが歩いては無理だから地下鉄に乗りなさいというが、インフォrメーシヨンがそんな遠い駅を書くはずがないと思い歩きはじめてみた、するともう3キロぐらい森の中を歩くのだがなかなか町がない、しかたがないから、ヒッチハイクでもして帰ろうかと何台にも手を挙げても止まってくれない、そんなことを繰り返しているところにタクシーがきたので載せてもらったが、どんどん森をまだ走るしもう10キロ以上も走りやっとホテルにたどりつけた。だいぶ覚悟していたが、10,20ユロで済んだからやれやれだった。地図を自分の頭で判断したことの誤りだった。</div>

これが2回目の失敗となった。


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by akinishi1122 | 2015-09-07 18:11 | 旅行 | Comments(0)

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