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(31)2012年8月17日パリ・ヨーロッパの旅(31)
パリ市内、凱旋門に登る

八月や命をかけし五年生 八月はやはり戦争末期の国民学校5年生で命をかけた想いでの月である

5年生のきあらをパリに連れてきている。僕の5年生は命があるかどうか、戦争の中だった。そして激動し180度転換していく日本を体験した月である。
パリは華の街として僕の記憶には美しい代名詞であった。だが連合国である敵国としてアメリカ、イギリスと同じように日本は戦う相手国であった。それはインドシナ、ヴェトナムに進出した日本がフランスの植民地軍と戦火を交えたから、敵国としてしか5年生の僕には憎き相手であった。その国が実は国内に優れた戦争反対の国民的な運動があったことを戦後しばらくして、知ったものであった。
キューリー夫妻、アラゴン、ジイド、ピカソ、ロマン・ロラン、トレーズなどの文化人がナチスドイツや日本に対する国民のファシズムにたいする幅ひろい抵抗運動がなされたことを知ったが、日本の知識人たちはことごとく弾圧され、獄中に繋がれ、反戦を唱え中心的に抵抗し続けた共産党の指導者は殺害されたか全て獄中につながれていて、あの戦争は全く国民の声を圧殺した中での、今から冷静にみると、勝つはずのない戦、しかも正義無き戦であったことが僕は個人的体験で世界を見て確信するにいたっている。
ところがこのパリには文化人や政党が統一戦線を組み、の指導者が国民的ファシズムに抵抗し、パルチザンを組織して、ナチスドイツのパリ占領に抵抗して、軍隊ではドゴール将軍のもとに結集したことをこのパリに来て知った。
パリといえば、1800年代の初めに市民革命としてルイ16世を倒し、かの有名になった、マリー・アントワネットも処刑されて、市民革命が成功したのであった。そのバスチュー広場が革命の最終成果の広場だったというが、ここには王室軍隊の屍の血の海で、馬が足を向けることをしなかったほど、人々の戦いの血の臭いが残っていたという。
その後、平和の広場、現在はコンコルド広場と名前がかわっている。市民革命で市民が戦って得た共和制は続かなかったが、この革命の息吹が「ラ・マルセーユ」という国歌として存続し、世界中にはじめてできた市民革命の成果の歌として知られようになった。と僕は記憶している。
その歌が戦後、日本でも輝かしい未来を作る歌として、歌ったものである。
フランス語のスペルは忘れたが、今でも覚えている。およそ60年近く前の学生時代であった。
「アロンザ・ファンド・ラ・パトリーユ・ルヅルア・レタルベ・コンヌデラチラテイラヌエ・レタンダルサン・グランテリベ・レタンダルサンテリベ・アンダンブ・ダン・レ・カンパニュ・ミユジッセ・フェロス・ソルダート・イルビエンヌ・ジュスクダンヌブラ・エ・ゴルゼ・ダスクヌカンパニュ・オザーメ・シトワイヨン・オルメード・バタイヨン・マション・マルション・カンサンアンピユ・アブルブノシヨン」たしかこんな歌詞だったが、歌詞はともかく、曲はいまだに忘れないものである。
19世紀には空想的社会主義の思想もここで生まれたように思う。サン・シモン、フーリエ、ロバートオーエンなどが、このフランス革命によって、理想社会を描がいた空想もこのフランス革命に触発されたようであった。
今でもその影響をうけた生活協同組合のCOOPというのはその流れとして生き続けているから、このフランス革命は長続はしなかったけれども、近代国家へのおおきなインパクトをここで与えたことは間違いないと思う。
社会思想的にはこのパリが原点で、経済的な近代化はイギリスの産業革命、哲学はドイツであったと思う。
ところが、この市民革命は組織が無く単に皇帝を倒しただけで、市民や、発達しかけた産業、商業家たちの税金にたいする不満が共通するだけだったので、共和制は武力を持つナポレオンにあぶらげをさらわれた結果になったとも言えるとおもう。
その後ナポレオンはパリ中心に国家制度を確立したのだが、これもブルジュア勢力の貨幣経済の力による国民的な産業資本のまえに倒れざるをえなかったと思う。
以上の見方は、あくまでも僕の知識の中で組み立てたパリについての見方であるから、おかしいことがあるはずである。だがあえて今日のパリを見る時の観察の目として自分が楽しんで観光した思いを記録しておきたい。
自分が楽しむための組み立てた見方であるから、フィクションに近いと思って記録しておきたいだけに書いておく。
 今朝は疲れで僕は昼過ぎまで寝ることにした。きあらと、薫だけで観光バスに乗るために10時過ぎにでていった。僕はまだ40日ぐらいの旅が続くため、無理して倒れたらいけないと、休養させてもらった。
12時半ぐらいに起き、凱旋門に登る。数えて登ると255段あったから、約63mぐらいの高さになるかもしれない。これが1806年にできたというのだから、すごい建設技術である。門の幅は30m以上はあると思う。昔飛行機ができた頃この門を飛んで通りぬけた兵士がいたというから、これもまた大冒険である。60mの高さの上に広場ができ、鉄の技術の無い時代にアーチとして、石だけで落ちない広場がよくできたものだ。
この凱旋門はローマの凱旋門を真似て作ったものらしい。やはり国王の権威を示すための戦勝兵士が凱旋してここを通過する誇りにするための門。そして、この門を中心に、12の放射線になった道ができ、都市計画がなされたようである。
ぼくも何回来ても、この街が凱旋門の見えるのに街に入り込んだら、迷子になってしまう。ナチスドイツが進入した時もこの街の迷路に苦労したということだ。
また地下道が世界で始めてえきた都市でもある。街が綺麗なのは、建物が統一された様式と、電線、電柱が無いからである。全て地下道に配管、配線されている。日本も最近地下の共同溝として動きだしたが、こことは200年送れていることになる。
この地下道もナチスドイツの軍隊を悩ませた大きな力になっている。これはヴェトナム戦争の時、サイゴンが歓楽したのが、民族解放戦線の作った地下道でアメリカ軍のすぐ200mまで堀すすんで一斉に攻撃したことは、このパリの地下道に学んだ成果で、最強の兵器をもったアメリカ軍を撃退したのは、ここから学んだものだった。
凱旋門を降りたら、日本人女性が休憩していた。19歳の宝塚の大学生とロンドンの大学生である。ロンドンの学生は、お母さんが日本人で父がイギリス人、顔は日本の顔だが、名前がイギリス名である。日本に11歳までいて、その時の友人との再会の旅をしているということだった。
なかなか可愛い二人であるが、日本人の女性にはボーイフレンドがいるのに、イギリス国籍の女性にはボーイフレンドがいない、という。普通考えたら、逆なように思うのだが、このイギリス人は、母が離婚しているから、母を見て男性不信になっている、という。
日本で育った女性が日本的習慣をもち続け、純粋の日本女性がボーイフレンドと楽しくすごしている、ということを聞き、日本女性のかわりようが、どんどん進んでいるなあと感じることになった。
観光バスに乗り、昨日のコースをまた回ってみた。そしてJCBのパリ支店に寄って、パソコンのランケーブル(外国でも接続できる器具)の店を紹介してもらった。JCBでは「一度起こしになりましたね」と覚えてくれていた。おそらく2年前のことを覚えていてくれたとは、嬉しいことだ。
パソコン店に寄って、日記の送信が済み、薫に電話したら、(きあらちゃんが疲れたというから、午後からずっとホテルにいる)という。だから「十時や日本食堂」で夕食の弁当を作ってもらって急いでホテルに帰る。
きあらはだいぶお腹が空いていたらしく、もりもり食べていた。成長期だから、ちからがあり、頼もしい食欲を嬉しくおもう。弁当はエビフライにナスの煮物、野菜炒めなどである。僕は鮭の塩焼きなどでビールを飲みながらおいしくいただいた。薫は食欲がないらしい。
僕は早く休むが、パリのシャンジェリジェの夜景を見てくるように勧めて先に休むことにした、シャンジェリジェは憧れていたから、楽しかったのだろう。12時ごろ帰ってきていた。
 
メール受信文学阪神 久保さん
炎天下赤白元気猿すべり
坂口さん、お元気にイタリヤ旅行を楽しんでおられる様子がよくわかります。
支部の井上さん、市川さんと3人でベネもチュア、ミラノ、ローマ、ナポリまで行ってはや、いつだったのか?
女同士の旅行は、どこえ行っても景色と食べ物、文化への好奇心です。坂口さんのように、もっとその国の特色や、成り立ち、経済構造、宗教にまでは思い至りません。もっと現実をみなければと、痛感します。そう思うとギリシャ、イタリヤの経済事情が気になります。
わが日本もまた、尖閣列島、竹島問題で、国の対応に不満をあらわにする国民の感情が今後ますます、エスカレートしそうです。本当に個人の喧嘩も国同士の喧嘩も「一蝕即発」
!すぐ争いの道へ突き進んでいきます。今まで元気のなかった右翼も表舞台に立ってくるでしょう。安倍元首相(極右翼)と結託する大阪維新の会がやがては、こうした「戦争への熱狂」を煽ることにならないか心配しています。経済は魔物、世界を揺るがす地殻変動です。もう二度と戦争も震災も起きてほしくありません。愚痴めいた返事して申し訳ありません。政治は官僚ではなく、世界を知る、コスモポリタンや商人、イタリヤのように専門家の学者が政務を司っていくべきだと思う昨今です。 

by akinishi1122 | 2012-08-27 02:44 | 旅行

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