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世界の旅(4)

ワンワールド世界の旅(4)
1月24日(木)南アフリカ. ヨハネスブルグ
香港を0時20分に離陸、隣の席が一つ空いて窓際にインド人のような女性が窓際にいる。僕は通路側にしてもらっている。もう深夜だが一時間もせずに食事が出た。ビールをもらってすぐCDを聴きながら寝る。椿姫、日本民謡、世界の青春叙情歌、日本のうたごえ灯火、野田淳子歌集、科学的社会主義講座などを掛けっぱなしで眠った。
ヨハネスブルグに着いたのは6時43分だった。外は14度と表示されているからやはり暑い。早速米ドル100を交換してもらったら、550ランドぐらい、それに香港で南アフリカ貨幣に変えたのが60ランドで合計の持ち金が610ランドとなる。
空港に出たら、早速客引きのタクシーやポーターが寄ってきて勧誘する。勿論すべて黒人だ。だが真っ黒というわけではなく少し明るい肌の人たちが多いように思う。ポーターが「ミヤザキさん」と呼びかけてくる。さすがポーターだけあって僕のスーツケースに書いている文字を読みとっているのだ。かまわずに今日のホテルがタクシーで3分と書いてあるからそうしようと思っていたら、日本人の青年がいて、「このポーターに少しのチップを渡しインフォメイシヨンや明日の予定などを聞いたらどうですか?」と助言してくれたので、この人が日本人だということばかりを頼りに彼に案内してもらうことにした。日本人の青年から、「YOHANNSUBURUGは何にも見るべき所はないですよ、ケープタウウンがきれいだ」と教えてくれたので明日はケープタウンに行くことにした。ポーターの案内で国内線のカウンターに行き、ケープタウンの飛行機の往復券を買う。往復で税込み2124ランドである。VISAカードで支払う。横にポーターがついていてくれたので助かった。それからタクシー乗り場だ。そこまでのつきあいで20ランドくれと請求された、どのくらいがチップの相場なのか分からないが、100米ドルを550にもなったので五分の一とみればそんなもんでいいかとの判断で渡した。すると少々不満げだったが次の客を探すためだろうさっさと去ってしまった。
次がタクシーだ。ホテルを見せたがここのタクシーにはメーターがついてない。5分ほどで着いたら80ランド請求された。これも乗る前に料金を聞くべきなのだろうが、行き先も確かでないから、聴き様がないから請求されたまま支払った。
ホテルは空港のそばで飛行機の機体も見えているぐらい近かった。
ホテルといっても哲顕に頼んでYH並を探してもらっていたから
大部屋で8つのベッドがあるが僕一人で使用できる。支配人は白人で奥さんは黒人、ホテルに勤務していたが4年前に独立してここを経営しているという。イギリスから来たというがなかなか親切で、明日の空港までは車で送ってあげると言うし、夕食の買い物にも車で送ってくれるという。午後から市内観光には「自分の友人に案内させる」といってくれる。お礼は100ランドでいいとのことだ。
ホテルの庭は1000坪ぐらいもある広大な敷地である。木造の2階建であり今は暇の時期のようで、沢山の部屋でもほぼ一人で使っていけるようだ。
プールもあり、プールサイドにいた白人に話しかけたら、58歳でオーストラリヤ、シドニーからきたという。勝新太郎に似た人で歴史の教師をしていたがもうリタイヤして2ヶ月のホリデーで世界旅行の途中とのこと、もうひとりドイツの人もプールサイドで新聞を読んでいる。これだけが昼までに見かけた客である。
1時になって観光案内してくれるフランクという青年がきた。外出するのに僕の身なりだと危険だという。携帯電話、カメラ、ポセット、これも持たないほうがいいという。パスポート、トラベラーズチエックまで預かるという。持ち物は現金だけだ。電話やカメラは青年が預かり、必要なとき渡すというのだから危険の度合いが極端にきついのだと怖くなった。目に見えているものはひったくられるらしい。極度の緊張のなかでフランク君と出発した。
最初が中型の15人乗りぐらいの車に乗る。どんどん人が乗りこんできて満席になったら発車した。やがて僕のフランク君が20ランド出せというから渡すと各々も後ろの座席から順番にお金を手送りで一番前の運転手の横の人がまとめて運転手に渡している。これは乗り合いタクシーなのかバスなのか看板もない、座席の数で運転手も料金は分かっているのだろう。また客が僕に料金は渡したか?と言うからフランク君の方を指差して彼が払ったとジェスチュアーで示した。乗客どうしで料金もチエックしてるらしい。勿論乗客は黒人ばかりだが、ここはイギリスの植民地だったから英語が通じる。
たしか独立したのはまだ10年ぐらいではないかと思う。独立運動の闘士であるマンデラが獄中数十年繫がれていたと思う。それほど独立運動を弾圧し、しかもアパルトヘイトといって黒人の居住区を区別していたのだった。こんな差別と管理を徹底した結果民衆の心は荒んだのであり、治安が悪いのはその名残であろう。
街の中心までは50Kというからかなり遠いが途中まではポツポツと住宅らしい平屋があり緑の中に赤土がいっぱいみかけられる。空は曇りで美しいとは感じられない。乗る前に危険を大分吹き込まれていたのでバスの中でも緊張しっぱなしだった。一番後ろの座席だったから女性の耳に金のネックレスをほとんどつけているのは服装に比べてさすが金の産地だなと思う。
沢山の高いビルがあるのにあまり道を歩いている人が少ない。やがて高いビルに案内してくれた。50階の展望台がある最大のビルだ。ここから全市内が見渡せる。何故こんなに沢山のビルなのかと思ったら、展望台にこの国の金やダイヤモンドの発見から開発の歴史が展示されているから理解できた。
金や ダイヤモンドの産地で世界の金が集まってくる、いわばアラブの石油と同じで財宝の原産地だからとわかる。展望台から下を見ると赤土がいたるところで掘りだされているから、まだ発掘は続いているのだろう。一方に宝を発掘して財宝を築くのにその生産物を発掘する労働者は貧困だから民衆の不満が窃盗や強盗となり荒むのは貧富の差がもたらしたものであろう。
ここのビルの地下には立派なショッピングがあるし結構にぎわっている。だが大きな街でもダイヤモンドの貿易などの事務所で見るべき遺産はないようだ。
帰りは雨になったが、そんなにきつくはない、一日に2・3回は雨らしい季節という。だから殆どの人がビニールのカッパをすぐ出して着ている。フランク君に傘をさしかけたら、すぐ止むからいいという。帰りもおなじように乗り合いバスでかえる。小学生の帰宅時間だったが、さすがに白人の学生は見かけない。いまだにアパルトヘイトで白人の居住地は別なのだろう。
独立解放運動の父、マンデラはさすがにあらいる商店に顔写真が展示されている。たしか2期ぐらい大統領を務めて今は別の人になってると思う。
ホテルに帰ったらすぐにスーパーに連れてくれた。すぐ近くだというから歩いて行けると思ってたら10K以上もあるところだ。オーストラリア人も一緒に乗せてもらった。ビール、チキンの丸焼き、 ポテトマ・ヨネーズ、バナナ、桃、パン、牛乳などを買って、帰りもマスターと一緒だった。これで50少々
だったが、マスターがレジーで支払い明日清算するとのことだ。
 昼食を食べてなかったので6時前に食事した。そのとき、黒人の奥さんに子供は何人ですか?と聞いたら「3人で上が貴方を案内したフランクで下が6歳の今一緒に買い物にいった娘」とのことだから、この奥さんは2回目かもしれない。フランク君は黒人の顔だが、下の6歳はハーフだとわかるスキンをしているのだから。だからここのマスターがフランク君のことを僕に友人と紹介したのかもしれない。
 夕方こちらの6時は日本の深夜1時だから眠たくて食事を早くすませて寝た。

by akinishi1122 | 2010-09-27 05:04 | 旅行

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